週刊RO通信

政治「疎外」を克服する

NO.1504

 パスカル(1623~1662)は、聖書の「あなたがたは、何を見に荒れ野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか」(マタイによる福音書第11章)から思索を重ねて、人間は「考える葦」であるとした。

 動物である人間が動物でない人間になろうとするのは意志であり、だから人間は運動体である。人間は「人間になろうとする」運動体である。そして、「われわれの尊厳のすべては考えることのなかにある」と主張したのが、有名な「考える葦」の意義である。逆にいえば、考えなければ葦である。

 こんなややこしそうな理屈を言わずとも、健全な精神をもつ人々が多いから人類は成長発展し続けてきた。そうではあるが、西欧の人々が到達した、「人間は自分がなろうとするものになる」という見識は、「汝自身を知れ」という言葉とともに、おおいに大切に取り扱いたい。

 ヘーゲル(1770~1831)の疎外論も意義深い。画家が絵を描く。出来上がった絵は画家から離れて独立した存在になる。画家と絵の関係を疎外とした。その絵に飽き足らぬ画家はまた絵を描く。かくして、画家は自己研鑽し成長する。ちょっと単純化しすぎたが、ヘーゲルの疎外論は人間の成長がどんなものかを示唆している。PDCの大本ともいえる。

 敷衍すれば、人は活動して成長するが、自己満足せず、過去の自分を否定して新しい自分になる。やはり西洋哲学の太い根っこだと思われる。

 フォイエルバッハ(1804~1872)は、ヘーゲル哲学を批判し、新たな疎外を指摘した。いわく、神をつくったのは人間であるが、神が絶対化して人間を支配している事態を疎外だとした。まともな人間は少しでもよい生き方を求めるが、キリスト教は神の言葉以外の生き方を禁ずる。

 フォイエルバッハは、神学とは本来人間学である。人間精神の自由な活動を抑圧・支配したのでは人間は成長しない。神を絶対とする精神社会において、フォイエルバッハが提起した見識は、カント(1724~1804)に続くコペルニクス的転回である。

 古い話だと思われるかもしれないが、そうではない。こんにちのわれわれは、フォイエルバッハの主張の神を、「社会」と置き換えてみればよろしい。人間社会をつくっているのは、1人ひとりの個人である。社会はまちがいなく、同時代の個人連がつくっている。

 ところが、個人としては「世の中はどうにもならない」ものだと確信! しているのではなかろうか。無神論であり、現代人である人々は、フォイエルバッハが、神をつくったのは人間だという主張に違和感はないはずだ。むしろ、そんなこと当たり前じゃないかといいたくもなろう。

 政治も同様だ。政治は、職業政治家たる人々が直接おこなうが、政治家を選ぶのは1人ひとりの個人である。個人が政治家をつくり、政治家が付託をうけて政治をおこなう。個人が政治家に支配されているのではない。この理屈は2つの面から粗末に扱われている。

 1つは、個人連が、だらしない役立たずの政治家は直ちに放り出すべしという至極当然の理屈を忘れている。これは疑いなく封建時代から敗戦までの上意下達政治の悪しき慣性が生きているからである。政治家の力は個人連の力なのである。これなくして民主主義は成り立たない。

 もう1つはそれの裏返しである。選ばれた政治家が、選ばれたことを忘れ、権力の代弁者、ないしは権力者として、人々を支配するからである。政治家が、人々に支配されていると感ずるのは選挙のときだけである。それも最初だけだ。連続当選回数が増えるほど権力に麻痺する。

 だから、支配者たる個人連は政治家たろうとする人々に、政治家の権力は個人連のものだという認識を折に触れて教えねばならない。増長させないためにいちばんの薬は選挙で落とす。ここ数年、選挙のたびに、政治家を志す若い諸君がよい政治をおこなうことよりも、権力に憧れているように見えて仕方がない。演説の内容に傾聴すべき核心がない。勉強不足を感じざるを得ない。しかし、態度だけはいわゆる政治家そのものである。

 竜頭蛇尾の文章になった。願わくは、誰が主人公なのか。自分自身なのだということを1人でも多くぱっちり認識していただきたい次第である。