週刊RO通信

萎縮無用--表現の自由

NO.1501

 立憲・小西洋之議員が提出した、放送法文書をめぐる官邸と総務省のやりとりを記載したA4約80頁の資料を、同省は行政文書と認めた。

 2014年11月26日に磯崎陽輔首相補佐官(当時)が総務省放送政策課にたいしてレクチャーを求めた以降の一連の主要な動向の報道をみる。山田真貴子首相秘書官(当時)が「変なヤクザに絡まれたって話ではないか」「メディアも委縮する。言論弾圧ではないか」と語ったごとく、安倍・磯崎・高市の三羽烏が権力を背景におこなった動きはアウトロー並みである。

 高市氏が、自分に関する文書の部分は捏造で不正確と吹いたが、同氏の支持者であっても、それを本気で支持する人はいないだろう。遁走テクニックも安倍氏の衣鉢を継ぐつもりらしい。ただし説得力はない。怪しからんがその部分ばかりに集中すると、大事な問題がお留守になるので要注意だ。

 18世紀後半に米仏に成文憲法が掲げられた。その核心は、人権の保障であり、人間を尊重する。つまり個性を尊重するから思想の自由を尊重する。当時思想の自由は言論の自由と出版の自由で、それが表現の自由である。

 1776年ヴァージニアの人権宣言には、――言論出版の自由は、自由の有力な砦の1つであって、それを制限するのは専制的政府である。――と明快に規定した。1789年フランス人権宣言では、――思想および意見の自由な伝達は人のもっとも貴重な権利に属する。すべての市民は、自由に語り、書き、印刷することができる。――とある。

 1948年の世界人権宣言では、――なんぴとも、意見および発表の自由を享有する権利を有する。その権利は、干渉をうけないで自分の意見をいだく自由ならびに、あらゆる手続きによって、かつ、国境にかかわらず、情報および思想を求め、受け、かつ、伝える自由を含む。――とある。

 表現の自由とは、権力・権威にたいする批判・反対の自由が大事である。歴史は権力・権威が表現の自由を制限・圧迫した無数の事例を示している。つまり、権力(者)・権威(者)は、逆らうことを許さない傾向が強い。

 わが憲法第21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」、○2「検閲は、一切これをしてはならない」とある。

 表現の自由については青天井ではない。最高裁は「公共の福祉に反しないかぎり自由」としている。ただし、公共の福祉なるものは明確ではない。他人の人権の保障の意味とすれば、かなり共感が得られよう。

 しかし、公共の福祉の含意が明確でないことを悪用して、表現の自由に制限を加えることは許されない。しかも、権力側が公共の福祉を規定するのであれば、すでに表現の自由が侵害されている。

 たびたび主張することだが、憲法に明確な規定があっても、憲法が自動的に機能するわけではない。憲法にたいしては遵守する立場と、遵守しない立場がある。非権力者が遵守しないのと違って、権力者が遵守しないとなれば大問題である。暴走三羽烏は確信犯的に憲法違反をおこなった。

 そもそも憲法は、誰もが遵守するべきものだが、とりわけ民主主義の憲法は権力に掣肘を加えている。なぜなら、権力を野放しにすると、人間を尊重する企図が無視され、民主主義それ自体が破壊されるからである。

 かつて安倍氏は、憲法が権力を縛るというのは昔の話だと語った。氏はご都合主義歴史観であり、ポツダム宣言も読んでいない。民主主義の理解が弱く、権力のおぞましさを無視し、権力に快感のみをいだいていたと思われる。安倍氏や高市氏に限らない。浜の真砂と同じで暴走政治家は絶えない。

 朝日新聞(3/8)に、ウクライナのインターネットメディア『ウクライナ・プラウダ』編集長セワヒリ・ムサイエワ氏のインタビューが掲載された。

 2000年創刊、創業者の1人が創刊半年後に惨殺された。真相不明だ。困難から立ち上がり、09年オレンジ革命の原動力の1つにもなった。戦時下にあっても、戦争のさまざまな側面を伝える。情報を隠さない。独立したメディアとしての道を突き進む。「事実と民主主義の価値を手に戦う」と語る。外圧よりも、「記者が自己規制しないよう」に議論している。

 わがメディアも、アウトロー的政治介入を許さず、恐れず、ジャーナリズム道を意気軒高に邁進してもらいたい。萎縮など無用である。