週刊RO通信

ジャーナリズムの立ち位置

NO.1492

 ジャーナリズムの存在価値を整理すれば、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどのメディア(媒体)を通じて、ニュース(事実)を報道し、解説し、評論する。ただし、以上は形式であって、本質、ジャーナリズムが扱う中身を語っていない。本質・中身というのは、取り扱われる事実が、いかなる精神、切り口によって表現されるか。これがジャーナリズムの活力である。

 一般にメディアは中立だとされるが、たとえば、政府が発表する内容をそのまま加工せずに流布するのならば官報となにも変わらない。ニュースは事実でなければならないが、情報発信者の広報・宣伝ではナンセンスだ。

 情報受信者にとっては、「知りたいこと(want)」「知らねばならないこと(must)」「知らなくてもよいこと」がある。膨大な情報社会にあって、個人が快刀乱麻に情報を処理することは不可能でもある。

 メディアからして、受信者のwant・mustがなんであるかを知ることは容易でない。一方、メディアには、自身が伝えたいニュースがある。ニュースの現場で活動する人と、受信者の立場は全面的に重なり合うことはないし、当然ながら隙間というか、すれ違いが発生することは避けられない。これを「中立性」という立場に逃げ込むべきではない。

 事件・事故もだが、政治に関する記事はとりわけ慎重に扱ってもらわないと、メディアが政府の広報機関に落ち込み、受信者は、なんのことはない、メディアを通じて洗脳されてしまう。宗教活動の洗脳も問題だが、メディアの在り方はもっと広範囲な洗脳力を持っている。

 目下筆者の最大関心は、国民と国の将来を大きく拘束する可能性がある安全保障問題である。政治システムが、さまざまな意思決定を臨機応変におこない、そして、事態の推移もまた的確敏捷にとらえて、柔軟な政策決定・遂行・検証ができるのであればよろしいが、いかにひいき目に見ても、わが国の政治は粗雑であり、まして然るべき時期において検証するなどはまったく期待できない。国民として、政府の暴走事故を防がねばならない。

 そこでメディアに対する第一の希望は、政治に対する検証能力(check)である。もちろん、事態は時々刻々動いて休まないのだから、この検証能力はきわめてダイナミックな頭脳と技術が必要である。「新聞は権力の番犬」だという説が、最近はあまり聞こえてこない。安倍内閣時代に苛められたのが効いているのかも知れないが、もしそうなら存在理由がない。

 わかりやすい事例を挙げる。メディアは、戦争問題に関する立ち位置は反戦・平和でなければならない。理屈は簡単である。戦争は国(政府)がおこなう。国民各人は、国が戦争する場合、賛否に関わらず引きずり込まれる。だから、政府が戦争に近づく政策を推進する場合、メディアは反戦・平和の立ち位置から報道・解説・評論をするべきである。

 国が民主主義体制であっても、戦争自体は国家主義・軍国主義である。民主主義は、人間の尊厳=基本的人権が基盤である。戦争は、人間の尊厳を蹂躙するものであって、なおかつ現代の戦争は、武器が主人公であり、人間は武器のもとで「動くモノ」化される。これほど非人間的な仕業はない。ウクライナ戦争で、ロシアの戦争犯罪が大批判される。然り、ただし、戦争そのものが犯罪なのだという真理を忘れてはならない。

 国と国民の安全保障を論ずるのであれば、そこらの泥棒・強盗事件発生対応型の場当たり対策ではなく、平和を損なう原因、戦争が危惧される原因を常時発見し、対処解決することでなければならない。戦争は始めれば簡単には終わらない。防衛費GDP2%どころか、費用は想像がつかないくらいであるし、遠くからウクライナを眺めているのとは違って、1人ひとりが戦場に放り込まれる。戦争「する決意・しない決意」は各人の問題である。

 反戦・平和志向の国民の声が世論になりにくい。政治家は議会で論ずることができるが、国民の声はいかに反戦・平和の声があっても固まりとして登場しない。いまこそ、メディアは反戦・平和の声の「広場」になるべきである。すべてのメディアが、戦前政治権力の御用機関化したことを反省した歴史的事実を本気で思い起こし、誇り高い「権力の番犬」に立ち戻ってもらいたい。後で吠え面かくのは誰もが真っ平ご免のはずである。