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アメリカは、病める民主主義大国

奥井 禮喜

 世間には、日本国憲法をアメリカの押し付けだとか、敗戦の懲罰だと批判する向きがあるが、日本国憲法を制定するために有効適切なガイドを務めてくれた極東委員会や、とくにGHQ民生局の人々の支援について、筆者はおおいに感謝する。もちろん、わが国にも明治時代から民主主義の萌芽があったことも事実であるが、民生局の人々が民主主義にかんして立派な見識とセンスを確保していたからこそ、日本国憲法は誕生した。

 ところで、さっこんのアメリカ的民主主義の報道に接すると、ただありがたがっているわけにはいかない。もちろん他国のことであるから、悲憤慷慨しても意味はない。アメリカの民主主義の現状を検討しつつ、わが国の民主主義のあり方を考える視点にしたい。

力の政策は民主主義と相いれない

 民主主義は、人間の尊厳(法的には基本的人権)を基礎とする。これは、いずれの国であろうとも、民主主義を標榜するからには否定できない原則である。

 バイデン氏のアメリカは、世界を民主主義国対権威主義国に区分して、民主主義を称賛すると同時に権威主義を痛烈に批判する。筆者も、民主主義と権威主義を並べた場合、権威主義を評価する気はまったくない。

 まず、民主主義理論に一国民主主義が妥当かどうかである。アメリカ国内は民主主義であるから、国と国との関係において、民主主義は権威主義とは天地を同じくしないという理屈が成り立つだろうか。国は個人ではない。権威主義の国の人々に対しても、民主主義を標榜する国は、個人は人間の尊厳を基礎とすると考えねばならない。

 民主主義であろうと、権威主義であろうと、国家とは権力である。権力の地平で見れば民主主義も権威主義も同じ土俵である。権威主義国のなかで、個人が人間の尊厳を尊重されていないからといって、民主主義国が権威主義国の個人の人間の尊厳を足蹴にはできない。

 すなわち人間の尊厳は国境を超えると考えなければ、自分の国が民主主義であっても、正統派民主主義とは言えない。だから、アメリカは、たとえば中国内の人権問題に介入するのだろう。(ここで、アメリカ国内にも人種差別が顕著ではないかという論議を吹っ掛けるつもりはない。)

 主張したいのは、すべての国の人間の尊厳を民主主義の基礎とするのであれば、国家間において、いわゆる力を正義とはできないのである。力を正義とすれば、戦争が発生する。戦争は、相手国の個人を抹殺の対象とするだけではなく、実は、自国の個人をも戦禍に斃れさせる。高度に武器が発達した今では、戦争はモノ対モノの力と量の対決であり、兵士は量としてのモノでしかない。

 戦争は、戦闘員もそうであるし、戦禍に冒される市民もまた破壊と殺戮の対象としてのモノでしかない。これが戦争の現実である。モノになれば人間の尊厳などどこにもない。

 アメリカ外交は建国以来、いわゆる砲艦外交である。砲艦外交とは、外交交渉において、軍事力による威嚇をもって相手国に強請する手合いである。

 ところで、自衛のための軍事力という弁解をするが、「やれるものならやってみろ、倍返ししてやる」というのであり、自分が先に攻めるか攻めないかの問題よりも、絶対優位にあることが本音である。他国からすれば、相手の絶対優位は立派な恫喝であるから、なんとしてもわが方の軍事力を増強しなくてはいかんという理屈になる。要するに、軍事力とは攻撃力である。

 アメリカは、第一次、第二次世界大戦以後、世界を仕切るようになって、ますます軍事力を強化した外交を展開している。中国の軍事力の脅威を喧伝するが、誇り高い中国はきわめて貧しかった時代から独立独歩でやってきた。それを貫くためには、自分自身が強くならねばならないという考えである。日米同盟を憲法よりも上に持ち上げるような日本的感覚では理解できるはずがない。

 さて、盛んにアメリカを中心とする世界秩序論が喧伝される。そこで、アメリカの中身を客観視すれば、国内では民主主義であるが、外に対して国家としては帝国主義だというしかないことを指摘したい。

 帝国主義とは、軍事・経済面において、他国を制圧して大国を建設・維持しようとする傾向である。アメリカ・ファーストは、たまたまトランプ氏の特許ではなく、アメリカの本性である。これがアメリカ外交の歴史である。

 レーニン(1870~1924)は、帝国主義について、資本主義の独占段階であり、独占体と金融寡頭制の形成、資本輸出、国際カルテルによる世界分割、列強による領土分割であると定義した。それと現代のアメリカの違いはほとんどない。

 だから、アメリカはその体質において、内に民主主義、外交を考えると外に帝国主義だと表現しても間違いではないだろう。

 アメリカ的民主主義は、人間の尊厳というよりも、個人の自由に大きく力点がある。アメリカン・ドリームがそれであるし、それを西部開拓史以来、全体として見れば、拡張・膨張主義である。いまはロシアのウクライナ侵略が注目されているが、アメリカ人が商売で外国進出して、その利権を国家権力が後押ししてさまざまの問題を起こしてきた。

 鄧小平の先富論とよく似て、強力な個人がジャンジャン富を創造する。さいきんバイデン氏がトランプ氏はトリクルダウン説だと批判したが、アメリカン・ドリーム健在なころは、先進者がどんどん豊かになって、トリクルダウンによって全体を引っ張っていると思われた。そうした気風の行き着く先は拡張・膨張主義である。加えて強い産軍複合体体質によって、アメリカ・ファーストが形成・維持されてきた。

 覇道か王道かという問いかけがある。もちろん、優秀なアメリカがどんどん豊かになるのは自由である。そして、本当にどこの国とも仲良く、善隣友好の外交路線を歩むのであれば、王道である。しかし、率直なトランプ発言のように、アメリカがとにかくいちばんであればよい。ならねばならないというような路線を取るのであれば覇道である。

 アメリカが王道路線ではないことを十分に知っている国々が多いから、アメリカを中心とする世界秩序を壊すなという見解に対して、単純に支持が増えない。世界一の実力者であるアメリカが、国連を正当に担って行動すればよろしいが、現実は、国連を自分の意向に沿わせようとするか、軽視している。

 国連改革・強化の声は少なくない。もし、アメリカが国連の忠実な担い手であれば、他の大国が拒否権を自由に使うことはできない。国連の改革・強化は機構の問題ではない。まず、アメリカが、アメリカ・ファーストではなく、国連ファーストの初心に帰れば、世界の光景は著しく変貌すること請け合いである。

 それなくして覇権主義国攻撃をしても、ことの本質上は、他人の目の中の塵を問題にして、自分の目の中の梁を無視するのと等しい。それは、世界秩序をますます混沌とさせ、不安定にするだけである。

 ロシアのウクライナ侵略を巡る一連の騒動から、アメリカはじめ世界の政治家諸氏は、なにか学び取られたであろうか。

アメリカの民主主義事情

 内に民主主義とはいうが、実情はかなり怪しい。もちろん、アメリカは建国以来の民主主義制度である。しかし、現実政治において民主主義が生き生きと躍動しているかは別である。日本の場合、日本国憲法に表現された民主主義は、世界一と自負したくなるが、そのように考える人は少ないだろう。

 今回はトランプ氏を巡ってアメリカの民主主義を考えたい。トランプ氏がかかわって発生する政治的動向をトランプ現象と括る。まだ、トランプ氏は政治的挑戦を終えていないから、それは今後も続く気配であるが、おそらくその全盛期を越えていて、蒸発するように消えるか、残りの薪が燻りつつ消えるかはともかく、やがて、人々が「あれはいったいなんだったのか?」と振り返る時代へ入っていると筆者は見立てている。蒸発するか、しつこく燻るかの違いは、アメリカ人、トランプ信者、共和党が立ち直る速度による。

 第一に、トランプ現象は、もちろんトランプ氏が登場して発生したのだが、トランプ氏の登場、トランプ現象のいずれもが、アメリカの民主主義の結果である。原因はアメリカ的民主主義がポピュリズムの渦中にあったからである。いつからかの精緻な分析はできないが、民主党クリントン大統領(在1993~2001)にはその傾向が強く出ている。彼は、民主党の路線をリベラルから中道へ寄せたことになっているが、実は、労働者階層からエスタブリッシュメント(支配階層)の側へ舵を切った。アメリカの資本主義はきわめて優勝劣敗である。それを支配階層側へ転換したのだから、大きな転換である。

 狙いは民主党が選挙で勝利することにあり、当然ながら大きな格差を是正するのではなく、ますます拡大するのは必然であった。1990年代後半には、いつ、暴動が発生しても不思議ではないという学者の見解が公表されていた。

 単純な話である。強弱、貧富の格差が拡大した。副大統領ゴア氏は、明快に民主主義を信奉していたから、クリントンの後の大統領になれば事態は変わったかもしれないが、共和党ブッシュ氏に敗れた。ブッシュ氏(在2000~2008)は、アフガニスタン・イラク戦争を主導したが、要するに戦争大統領であり、内政や民主主義に成果を出していない。この間、人々は後へ行くほど政治と自分の生活の距離が拡大し、政治に声が届かない、焦燥感にとわられるのは必然である。

 オバマ氏(2009~2017)は「チェンジ」を掲げた。出自も含めて、彼の登場はきわめて斬新であり、おおくの期待が集まった。しかし、アメリカ国内の構造的諸問題を快刀乱麻に片付けることはできず、格差社会は解決への展望が開かないままにトランプ氏の登場に至ったのである。

 トランプ氏の登場は、まさにアメリカ政治が民主主義の落とし穴にはまっていた時である。極論すれば暴動が起こっても不思議ではない事態である。荒唐無稽、支離滅裂な発言ではあっても、エスタブリッシュメントに攻撃の矛先を向けたトランプ氏に対して、忘れられた人々が大きな期待を抱いたであろうことは十分に理解できる。

 しかも選挙戦において、ジャーナリズムとの対決が大きな話題になった。ジャーナリズム自体がエスタブリッシュメントと同一視されているから、トランプ戦略は大成功であった。

 トランプ氏の発言の大方は、非常に身近に感ずる。これはわが国でもしばしば体験する。そこらの居酒屋でいい機嫌に出来上がったおじさんが怪気炎を上げる。大統領でなく、トランプでなければ、周囲の誰も本気で相手をしない手合いである。それが大統領選挙となれば、誇大妄想、大言壮語、品性下劣などなどが救世主に見える次第だ。ポンチ絵的だが、これがトランプ現象である。

 かかる状況が民主主義ではなく、ポピュリズムの培養されやすい土壌である。もちろん、トランプ氏が、異能・才能の傑出したアジテーターであればこそだが、冷静に中身を眺めれば、居酒屋酔漢が大統領に就任したようなものだ。チャップリンの映画『独裁者』の床屋おやじは、堂々たるスピーチをおこなうが、まったく違いが大きすぎて話にもならない。

 アジテーター個人の資質もあるが、ポピュリズムが支配する社会は、それ自体、民主主義が病んでいることの証明である。共通言語は現状に対する強烈な不平・不満である。トランプ氏は果たして政治をしたいのだろうか。選挙が大好きだということはわかる。ただし、政治をするためには、政治家の資質を備えねばならない。彼は、政治よりも栄誉を求めている。本当に人々の不満を認識しているなら、展望もなく、金正恩と会ったりしない。目立とう意識、それだけだ。

 民主主義は、1人の男の不平・不満に引きずられるのではなく、普通のアメリカ人の生活向上に焦点を当てるべきである。今回の中間選挙は、まちがいなくトランプ流が人々の嫌気を増幅した。トランプ氏が、本当に政治家なのかという冷静な動きが出たのは間違いなかろう。

 とくに、トランプ氏は、言ってはならないこと、やってはならないことに首を突っ込んだ。選挙を不公正だとし、議会襲撃を許容した。これは、ポピュリズムどころか、暴動であり、クーデターである。政権交代が円滑にできないような人間は独裁者である。

 1950年から1954年、アメリカ全土にマッカーシー旋風が吹き荒れた。上院議員マッカーシー(1908~1957)は希代のアジテーターであった。上院議員になって3年間鳴かず飛ばずの彼が、1950年、国務省に200余名の赤色分子がいるとして追放を要求した。これが赤狩りである。

 後から見れば、ワシントンの陣笠議員の1人が、反共という武器を手にして突如ぶっ放し、アメリカ中を大騒動に巻き込んだ。(日本では1949~1950年、GHQ指令によって、大規模な赤狩りがおこなわれた。)そして、1954年ようやく体制を立て直した上院が、マッカーシー非難決議を可決して、マッカーシーは蒸発するごとく没落したのである。

 かつて、アメリカは時として奇妙なことをしでかして世界を驚かす国だが、マッカーシズムの横行はアメリカ戦後史に現れた奇妙な現象の最たるものだという見方もあった。なるほど、マッカーシーの台頭も奇妙だが、彼の没落もまた奇妙である。しかし、マッカーシズムから半世紀以上経て台頭したトランプ氏とその騒動には、歴史を越えた共通点がありそうだ。

 当時は奇妙な話とされて生煮え総括であるが、パーソンズという社会学者が、「マッカーシズムは一部の既得権益分子に支持された運動であり、同時に、上流階級に対する民衆の反抗でもある」と主張したらしい。どうやら、この指摘は的を射ていると思われる。

 政治家は公僕であって支配者ではない。権威主義国ではなく、民主主義国であっても、この言葉が無視されるとき、民主主義は病んでいる。拱手傍観しているとポピュリズムが台頭する。それがたまたまヒットすると、次は間違いなく権威主義の出番である。くれぐれも用心しなければならない。


 奥井禮喜 1976年、三菱電機労組中執時代に日本初の人生設計セミナー開発実践、著作「老後悠々」「労働組合が倒産する」を発表し、人事・労働界で執筆と講演活動を展開。個人の学習活動を支援するライフビジョン学会、ユニオンアカデミーを組織運営。On Line Journalライフビジョン発行人。