週刊RO通信

岸田自民党的儀礼が招くお粗末

NO.1474

 敗戦後の国葬は吉田茂元首相のみである。吉田は政界引退ひさしく大磯の自宅で1967年10月20日に89歳で亡くなった。国葬儀は同31日であった。官公庁・公立学校は半ドン、公営競技は中止、自粛ムードのなかテレビなどは特別番組を放送して「盛り上げ」た。葬儀を盛り上げるというのもおかしな表現だが、厳粛な盛り上がりがなかった。筆者は22歳のチンピラ社会人だったが、国葬儀騒動の記憶はかすりもしないくらい記憶がない。

 吉田について記憶しているのは、立太子礼で臣茂とやって記者に質問されると、臣は総理大臣の臣だと切り返したとか、大磯を訪れた誰かが健康法を問うと、人を食って生きていると語ったくらいのものだ。政治的に支持しかねることのほうが多いが、敗戦後の占領下体制において尽力したのは事実。GHQ(General Headquarters)とは、Go Home Quicklyだと言ったという。いまは見られない、独立独歩の日本の政治家だったろう。

 さて、安倍氏国葬まで1か月になった。それなりに結晶作用のなった吉田国葬儀と単純に比較しても意味はないが、少し考えてみる。

 儀礼というものは、社会生活の秩序を保つために、人々が守るべき行動様式であり、敬意を表す作法である。とくに葬儀は、亡くなった人の社会的功績をふりかえり、果たした存在感の意義をしみじみ偲んで、後から行く者として有意義な生き方をしようと、心を洗うための区切りにする目的だ。

 政治的見識の違いがあるのは仕方がない。違いは違いとして、試合終了のサイレンかゴングが鳴った相手であるから、人々が、お互いの健闘をたたえ合う程度の心持がなければ国葬儀の儀礼としての意味はない。しかし、安倍氏国葬儀にかんしては、そのように割り切れない問題が目白押しだ。つまり、安倍氏においては、国葬儀という儀礼にふさわしくない問題が多い。

 法的には、国葬の法制が存在しない。戦前の国葬法は、敗戦後の1947年に日本国憲法実施と同時に失効した。内閣が勝手に決めるミーハー的国民栄誉賞と同じように扱うのはよろしくない。そもそも内閣設置法を国葬儀の根拠にするのは、悪しき官僚的便法であって、いわばアウトローなのである。

 岸田氏は、保守層の突き上げが強かったので、法的解釈はいかにも官僚の考えそうな内容で、安倍氏の国葬を早々表明した。拙速、未熟慮の見本である。寄木細工の理屈以上に、国葬というならば議会審議が不可欠である。これを全面的に無視して、いわゆる内閣の裁量範囲という解釈で進めた。

 銃撃事件の衝撃で、人々の情動が大きく作用すると読んだだろう。ところが時間が経過するにつれて、安倍氏、並びに自民党議員の旧統一教会との腐れ縁が暴露されて、国葬反対が大きくなっている気風である。

 いったい、長く政権の座にあったことが国葬の理由になるか。岸田氏も、それだけでは無理だと思うから、安倍政治の評価はやりたくない、やらない、やれない。ために議会審議をパスしてしまう。不見識は自分にはね返る。

 国葬といえども、格別人々に服喪の強制はしないとコメントした。つまり、お体裁は国葬だが、儀式としての格が国葬儀であって、国民挙って弔意を表明するものではないという、わけのわからぬ袋小路にはまった。

 もともと、岸田氏は他者に対して聞く耳を持っているのがセールスポイントだった。そうであれば、やはり議会を開いて堂々たる意見交換をやればよろしい。うやむやで進んだ結果は、それほどの強い意思も度胸も持ち合わせないことがさらに露呈した。吉田国葬儀の葬儀委員長佐藤栄作は、弔辞で、「先生の死は多くの国民の心に静かな感動を呼び起こしています」と述べたが、今回は国葬儀自体が政治的分断に拍車をかけている。

 なにを、なんのために、いかにしておこなうか――これは、大きなことでも小さなことでも、なにごとかをおこなう場合の段取りの規範、鉄則だ。国葬も葬儀の1つである。葬儀は葬儀屋チームとしての官僚機構が万全の対策を講ずるだろう。しかし、政治家の仕事は儀式をとどこおりなくおこなうことではない。すべての政治的行動に対する段取りを、おさおさ怠りなくなさねばならない。たかが儀式であっても、政治的段取りを無視して行動するごときは政治家にあらず。まして、内閣総理大臣の任務・権限にあらず。

 国葬が岸田政権への弔鐘になるかもしれず。それもまた意義があろうが。