週刊RO通信

聖と低俗

NO.1473

 自分は、縁なき衆生は度し難しで、まったく信仰心らしいものを持ち合わせず、神仏にお願いもしないから、救いがなくても恨みっこなしだ。ご近所八幡神社祭禮の提灯を近所付き合いで例年収めている程度である。現世ご利益がちらちらするような宗教は信じないし、そもそも信仰にあらずと思う。

 わが故郷近くの温泉津町には、浅原才一(1850~1932)という妙好人がいた。妙好人とは、行いの立派な念仏者で、浄土真宗で篤信の信者をいうがきわめて少ない。才一は、下駄削りの貧しい職人で、南無阿弥陀仏の心で思いつくことを鉋屑に書きつけていた。もっとも、故郷で暮らしていたころは、まったく知らず、たまたま柳宗悦や鈴木大拙の著作で知った。

 聖フランチェスコ(1182~1226)は、イタリア中部アッシジの人で、若いころは愚連隊を率いていた。さっこんならヤンキーというのだろう。某日閃いて裕福な親の相続権を放棄し、持ち物一切を貧しい人々に施して、回心(キリスト教で、過去の罪の意志や生活を悔い改めて、神の正しい信仰へ向かう)して、無一文生活で旅から旅の生活を送った。

 「愛と清貧」に生きたフランチェスコの信仰的天才に人々は熱狂して、共鳴した信者が天文学的数字に膨れ上がった。ローマ教会は困惑した。なにしろ、フランチェスコは財産などいらぬ、教会もいらぬ、教団を作るな、ただ信仰あるのみというのだから、教会財産と組織階層制度を柱として隆盛を誇るローマ教会としては強力なシロアリに見えたとしても不思議ではない。

 ローマ教会のおひざ元である。叩き潰すことができなくはないが、膨大な信者を考え、また、とにかくフランチェスコはキリスト教の「妙好人」であるから、そんな無茶はできない。ローマ教会は、一計を案じ、フランチェスコに教会を作ってやると提案する。フランチェスコは雨露しのげれば十分として固辞する。ローマ教会はそれでは困る。ついにアッシジに立派な教会や修道士らの宿舎を押し付け建設した。困り切ったフランチェスコは、教会を出て、谷間の洞窟へ入ってしまった。

 ルネサンス時代に入ると、僧侶の偽善、無知、多淫、貪欲などの悪行状に対する風刺・皮肉・罵倒の文学が登場した。批判する側がフランチェスコ的資質だからではない。現実には目もくれず、聖職者を気取り、庶民を欺いて甘い汁を吸うことに狂奔する傾向が、懐疑心旺盛で自由な言論を指針とするルネサンス文化人の憤りを呼んだわけだ。

 エラスムス(1466?~1536)は、フランチェスコ同様、終生ローマ教会に忠実だった。人文学者として、まっとうな宗教者として、修道院の実態や、神学に批判を加えた。あるがままの自然な人間を浄化向上させるためにキリストの福音がある。低俗に塗れた教会の硬化した制度や腐敗した人々をコテンパンに批判した。神の神たる所以は、人間的苦悩を和らげるにある。それこそが宗教の目的だ。ろくにものを考えず、聖の薄皮をめくれば低俗が鎮座ましますのでは我慢できない。やがて宗教改革の疾風怒涛が起こる。

 懐疑的で辛辣な風刺で知られるアナトール・フランス(1844~1924)に『聖母の軽業師』という短編がある。要約する。

 ――修道院に入った人々は、学問したり、薬草園で働いたり、大工仕事をこなしたりするが、当時もっとも卑しいとされていた軽業師出身の男はなにもできない。考え抜いた挙句、深夜にこっそり礼拝堂へ行き、聖母像の前で得意のとんぼ返りや、逆立ち、玉回しなどの曲芸を一心不乱におこなう。

 ある日、不審に思った修道院長が後をつけて行く。中を覗いて、なんとばかなことをと思い、ドアを開けようとした院長は、驚いてひれ伏した。聖母がしずしずと台座から降りて来て、軽業師の額の汗を拭われた。――

 もちろん宗教奇跡物語であるが、信仰心なきものにも話の美しさがわかる。

 思うに、宗教といい、信仰というが、悩み多き辛い人生にあって、どこまでも与えられた生を真剣真摯に進むための、各人の心の修養(の応援)にこそ、その価値があるのではなかろうか。聖を騙り人々を惑わし、神さまならぬカネさま一直線の現代宗教を巡る騒動は、まったく救いようがない。面白くもない報道が続くので、無宗教者の1人としての無宗教的感性を文章にしてみた次第である。末尾に、ついでながら残暑お見舞い申し上げます。