週刊RO通信

リップサービスでは橋は架からず

NO.1471

 橋を架けるという言葉は、なかなか含意があると思われる。架橋によって人やモノが移動するだけではなく、分断・分離されていたAとBの交流が深まる。架橋自体は物理的表現だが、それが生み出すのは深淵な精神的交流である。政治家が分離・分断されている双方に架橋すると発言する志はまことに立派、かつ有意義である。

 ニーチェ(1844~1900)は、ツァラトゥストラに語らせた。いわく、「人間の偉大は自己目的ではなく、橋であることだ」と。同時代でみれば、これは人と人とのコミュニケーションの昇華を意味するだろう。下世話流で人間関係をうまくやるだけではなく、対手と共感的に重なる。一体化するのであって、まさに、そのようなコミュニティは良き社会である。

 ラポール(rapport)という言葉がある。フランス語で親和関係をいう。交際において心が通い合う。お互いが心を許して信頼しており、感情交流が円滑である。お互いが許容しあう状態である。心理学では、セラピストとクライアントの関係で使われる。お互いが誠意・好意・敬意をもっている状態である。相互理解の成立条件を示している。

 孔子(前551~前479)は、仁を最上とし、他者に対する思いやり=忠恕を尊重した。惻隠の情であり、無償の忖度である。表現は違うが、西洋も東洋も、コミュニケーションはラポールだと考えている。これを、ニーチェは「敵意によって敵意は止まず」と表現した。普通のわれわれは、もったい付けずとも、この言わんとする理屈はすんなりわかる。

 岸田氏は、8月1日のNPT(核拡散防止条約)会議に、自分が行くと主張していたらしい。よほど期するところがあったと思われる。岸田氏は、核兵器保有国と、非核兵器保有国との間に架橋するという偉大な気迫をもってNPT会議に臨まれただろう。しかし、気迫は持ち合わせていたが、表現が適当でなかったのか、どうも心打つなにかがなかった。

 演説要旨は、① 核兵器不使用、② 核戦力の透明性、③ 核兵器の減少、④ 核兵器の不拡散で、これは岸田氏が語るまでもなく、NPTの事業目的である。そして、⑤ 指導者の被爆地訪問を掲げた。中身は、a 国連にユース非核リーダー基金を作る。b 11月23日に広島で国際賢人会議を開催する、c 来年広島でG7サミットを開催するなど。

 プロセス(手段)は提案したが、コンテンツ(中身)がない。なるほど、核兵器のない世界へ現実的な一歩と言う通り、前進するのか停滞を続けるのか判断しかねる。とりわけ核兵器廃絶を願う者にとっては、核兵器禁止条約に関する発言が皆無なので、いったい、架橋する気があるのかどうか。いかなる展望を描いているのか不明である。

 思い出すのは、1956年12月18日の国連総会である。全会一致、日本の国連加盟が実現した。1933年3月に国際連盟を脱退してから23年ぶりに国際社会に復帰できた。日本代表重光葵外相(1887~1957)が、次のように演説した。「日本は、国連の義務を忠実に遂行する。世界の緊張に対して、日本は東西の架け橋になって、平和の推進に寄与したい」。

 この演説は立派である。誇らしさすら感ずる。しかし、残念ながらその後の日本外交は、重光の言葉通りではなかった。看板は国連中心主義だが、実体はアメリカの追従であり、高い志はどこかへ飛んで行ってしまった。

 核兵器禁止条約は、なるほど理想かもしれない。一方、現実的な一歩と言いつつ、核兵器保有国の考え方に一石を投ずることすらないのであれば、それを現実主義とは言わない。場当たり主義、日和見主義である。

 被爆国日本が、にもかかわらず、なぜ核の傘の下にあるのか。橋を架けるつもりであれば、その倒錯した理由を堂々と主張するべきである。核兵器反対は被爆地の被災者の怨念ではないはずだ。なぜ被爆国になったのか。その歴史的経緯を臆せず堂々と述べられないのであれば、もちろん、架け橋になるなど見栄っ張りの空論でしかない。信用失墜甚だしい。

 ツラトゥストラは、こうも語る。「国家は、善と悪についてあらゆる言葉を駆使して嘘をつく。善人も悪人も、すべてが己自身を失うところ、それが国家である」と。政治家の良心とはその程度のものか。