日々道楽

苦い笑い

 人が笑うとき、高みに立って、失敗したり不都合のある対象を嘲笑する面がある。パリッと着込んで意気揚々と闊歩している紳士がつまずいて転倒するなんてのは、いわゆるスラップ・スティック・アクション(ドタバタ)の典型である。これが作り話であれば、ただ表面的・物理的な笑いである。

 しかし、少し考えてみれば、その笑いは後味がよろしくない。笑いの罪悪感だ。

 子ども時代に、シェークスピア『ベニスの商人』を読んで、守銭奴のシャイロックが偽裁判官ポーシャの機知ある裁判で原告から被告に追い込まれるのが痛快だった。大人になって、芝居の時代的背景に、酷薄なユダヤ人差別があることを知って、嫌な気持ちになった。

 知ってか、知らぬかは別として、他者を差別している人が、それが原因で得意の絶頂からどん底へ転落するのは、構造上、人々の笑いを呼ぶ。ただし、少しも愉快ではない。他人の不幸がわたしの幸せで、笑う自分の品位が落ちている。

 本日読売社説は、「東京五輪開幕 コロナ禍に希望と力届けたい」と題して、困難に立ち向かう努力の大切さ尊さを世界に伝えたい。スポーツには、人の心を動かす「力」があると主張した。

 原稿を書きながら論説子は、菅氏の安心・安全と同じで、次々に露見する不祥事に対して、人々の気持ちを好転させるには、なんら力がないことを苦く笑ったのではあるまいか。