日々道楽

五輪と人権

 五輪開会式の楽曲担当者が辞任に追い込まれた。時間切迫のおり、組織委員会は、このままなんとか乗り切れるのではないか・乗り切りたいと考えたらしいが、火に油を注いだ。

 そこで毎日社説(本日)は、「組織委の人権意識を疑う」と痛烈批判を書いた。しかし、これは組織委に限らない。最初から五輪推進の面々に人権意識があったかどうか怪しいものだ。

 「復興五輪」などと、おためごかしのキャッチコピーのうさん臭さ、本気で被災者の意識と生活を考えているならば、こんなコピーを自慢げに打ち出せるわけがないだろう。最初から非人権五輪なのだ。

 10年前、東日本大震災復興構想会議提言の「悲惨のなかの希望」という見出しを見たとき、わたしは実に嫌な気持ちになった。メンバーは、東北地方への思いを形にしたかったのだろうが、軽いのである。あの、「がんばろう! 日本」のノリと変わらない。被災されたどなたかに、「悲惨だけれど希望を持とうね」などと言えるか! まるで分っていない。他人の不幸である。

 ――(復興構想会議)第一回会議の際、梅原猛特別顧問は「これは文明災だ」と拳で机をたたき、感涙にむせび天を仰いだ。――(日経 御厨貴2021.3.4)

 これを読んだとき、やはり、さもありなんと思った。悪気はないだろうし、本人たちは真剣真摯なのだが、自分たちが戦っているのは、震災でも原発事故でもない。被災された人々を救済し、元気を取り戻してもらうために、レポートを仕上げるのが仕事である。文明災だの、希望だのは、表面のペンキである。

 善意であっても、人を傷つけることは多い。人権意識なるものは、自分の気持ちではなく、他者を全面的に受け入れることである。突き詰めれば、だれでも自分が危なっかしい人権意識を持っていることに気づくはずだ。

 まして、コロナ禍騒動で、圧倒的多数が五輪開催を否定しているなかで、組織委員会は実行部隊として活動している。はっきり言って、人権第一から考えれば、組織委員会の存在・活動自体が矛盾である。

 五輪開催自体が、いまや最大の人権問題だということを指摘しておきたい。