週刊RO通信

2020東京五輪パラの遺産

NO.1416

 少し早いが、今回の東京五輪パラの遺産について考える。概して、喉元過ぎれば熱さを忘れる。鉄は熱いうちに打たねば成形できない。

 遺産には、ハードとソフトの2面がある。また、正の遺産だけではなく、負の遺産もある。遺産といえばお宝であったり、事業でいえば成功体験を想像するが、借金が残ったり、失敗することも少なくない。

 お宝を手に浮かれて、身上を潰す。お宝がいかなる工夫・苦闘を経てここにあるかを考えない。成功体験が遺産にならず、成功の幻想だけが残ったりもする。1つの成功の裏には少なからぬ失敗がある。ところが、成功という輝く部分のみに注目して、それを生み出すための苦闘=失敗が見失われる。その結果、成功体験が新しい失敗を生みやすい。

 あえて言う、遺産というものは、正よりも負のほうが有価値である。ところで、だれでも失敗は嫌だから、見たくないし、早く忘れてしまいたい。それでは、せっかくの失敗体験が遺産として生きない。1964東京五輪は事業的には失敗だった。しかし、記憶しているのは「東洋の魔女」などだ。嫌で、見たくないものを見るべし。それでこそ、負の遺産が価値を生む。

 2020東京五輪パラへの、お宝儲け期待はことごとく外れた。予想もしなかった負債も抱えただろう。「おいしい話に気をつけろ」という痛い教訓だ。そもそも、イベントで儲けを期待するのは危なっかしい。これは周知のはずであったが、なぜか浮ついた。イベントは祭りである。祭りに踊っていて儲けられるはずがない。

 祭りは本来、みんなが浄財を持ち寄って盛り立てる。わが町の代々木八幡神社の祭りで稼ぎを狙う人は皆無である。祭りは消費である。なぜか巨大運動会オリパラという祭りについては、儲かる祭りという幻想が支配している。この勘違いがわかったとすれば、決して悪いことばかりではない。

 「おもてなし」という美辞麗句の本音は、海外からもたくさんのお客が来て、たくさんのお宝を残してくださる。――ところが、開催が近づくにしたがって、現金な話は一切消えて、選手の活躍、スポーツの真髄は芸術に至る(これはその通り)という論調が前面に浮かんできた。選手の活躍を使ってお宝獲得という不純さが消えたのは悪くないが、本当にわかってはいないだろう。

 無観客ならば、主人公たる選手のためだけに、巨大運動会が開催される。競技会のための膨大な人・資金・時間などの資源を、選手1人頭にすれば大変な金額であろう。選手としては、選手冥利に尽きる。結果的に、わが代々木八幡神社大祭と似て、神さま(選手)への尊崇の念になる。選手にとっては「世紀の祭典」だと高唱できるかもしれない。皮肉な話だが——

 当初2020東京五輪パラは、「復興五輪」だった。これは、果たして被災地の人々の共感・支持をえていただろうか? 復興の思いは1人ひとりの心の問題であって、湧き上がる思いなくして「復興五輪」とするのは僭越である。しかも、コロナ騒動が問題になるや、今度は「コロナに打ち勝つ証」という言葉が登場した。これまた、被災地の思いなど無視している。「復興」に本気の思い入れがあったのかどうか、批判されても仕方がない。

 「復興五輪」にせよ、「コロナに打ち勝つ証」にせよ、国民的共感性はない。コロナ対策を国民一丸で取り組んでいるという気風もまたない。いわゆる専門家と政治家の関係すら、人々の目にはいまだ不明寮である。国・地方が発する政策に共感性が高いだろうか? 直近も、学習効果がない政治家の言動・行動は、情報を公開し、衆知を集めて対応するどころか、人々に対しては、政治家の指示に黙って従えと言わんばかりである。

 安倍氏は、「五輪の成功を望まぬ連中は反日だ」とまで言った。反日は、敗戦までの非国民と同義語である。納得できないから意思表示する人々を、非国民呼ばわりするような人物が8年間政権を担った。政治家としての品位がゼロ、いや、特大のマイナスだ。政治を担う者が、失政の責任を一顧もせず、それで政治をしているつもりなのだから、つける薬がない。

 これらは疑いなく、2020東京五輪パラの「負の遺産」として現れた。人々が、これをしっかりと認識するならば、品位なきパッチワーク政治を追放する一歩になる。ならば、価値ある勉強をしたといえる。