週刊RO通信

『蘋果日報』と、日本的「一国二制度」

NO.1413

 黎智英氏が、1995年に創刊した香港『蘋果日報』が、香港警察によって資金凍結され、6月24日朝刊をもって廃刊に追い込まれた。デジタル・ニュースの会員380万人(有料63万人)も有する。ふだんの購読者8万部で、新聞最終刊は100万部が完売した。香港人口は743万人である。

 香港国家安全維持法が施行されれば、香港的自由にワッパがかかるから、『蘋果日報』の人々は、この日が来るのを予期していたはずだ。経営者はじめ記者・関係者・支持者が、それでもなおかつ突き進んだのは、信念に基づいて、地の塩・世の光(マタイによる福音書第5章)たろうとしたのだろう。

 日本の新聞は、いずれも『蘋果日報』への同情の念と権力に対する憤りをもって報道している。悪玉が善玉を踏み潰したという論調だ。ただし、蜂がブンブン飛び回るみたいで中身スカスカの感じを払拭できない。

 かつて、中国的「一国二制度」は、よく考えられたものだと感心した。鄧小平氏の舵取りであった。日中国交回復時の尖閣問題も同様で、後世代の知恵に託して「棚上げ」した。棚上げは本質的解決ではないから、知恵が至らず急げば衝突する。ために、いま膨大なエネルギー・資金をつぎ込んでいる。

 尖閣の場合は国家権力対国家権力だから、権力同士が、国家に本格的災いが発生する以前で足踏みする。一方、国家権力対香港『蘋果日報』の関係において、力関係は否定しえない巨大な格差がある。

 デモクラシー対オートクラシーと置けば、問題は単純である。そこで、もし、かつてイギリスが中国侵略の勝者として、香港を租借しなければどうだっただろうか。少なくとも、香港は中国と共にあり、当然ながら「一国一制度」である。蒋介石の国民党が支配した台湾問題のような事態は発生しない。

 デモクラシーを掲げる国々(日本も)が、デモクラシーを掲げる国の香港租借の歴史的結果として今日の香港が存在すると考えれば、内心忸怩たるものがありそうなものだ。歴史的視点がまったくない香港問題(『蘋果日報』)同情論には、他家の火事は大きいほどニュース価値があるという感じで、お気楽さすら漂う。あるいは、暗に日本は良い国だと確信したいのだろうか。

 中国にすれば、香港は間違いなく国内問題である。香港の民主派は、間違いなく中国の体制にNOを突き付けた。それに対して、国家権力が無為無策であれば、香港は無政府状態になる。56民族と14億人を擁する中国である。習近平氏ならずとも、放置すれば、国家体制を維持できないという危機感を持つのは必然だろう。(当局の行動を肯定するのではない)

 19世紀から、他国に好き放題蹂躙された中国の人々は、屈辱の100年を遠い過去の絵空事だとは思わない。100年の苦闘を経て、「砂のようにバラバラ」ではダメだ。お互いに力を尽くさなければならないという考えで国作りをしてきたからこそ、今日の位置がある。いかなるコミュニティを形成していくか。あるいは、他の目的・方法を選択するか。これは中国の人々が人智を傾けて追い求めるしかない。中国は中国人が決定するしかない。

 デモクラシーは「人間の尊厳」である。それを愛する気持ちには異論がない。共産主義の理論的到達点は、市民的解放の次元を超えた、「人間的解放」である。国作りが成功裡に進めば、市民的デモクラシー以上の高次なデモクラシーに到達する。デモクラシー対オートクラシーの峻別論が盛んだが、善玉・悪玉論を絶対とするなら、デモクラシーの思想的過ちに通ずる。

 デモクラシー国たる日本には、本土並みの扱いを切実に希求する沖縄がある。沖縄の人々は「一国一制度」を希っている。ところが、国家権力を行使する人々は、沖縄が「一国二制度」であっても、なんら痛痒を感じない。かつて決定的に差別し、敗戦後はアメリカに預け、1972年にやっと祖国復帰を果たした沖縄が、来年復帰50年を迎えるにもかかわらず、「一国二制度」なのである。だから中国の危機感も理解できないのだろう。

 日米安保体制を国是とまでいうような保守党人士に問いたい。果たして独立国としての矜持を持ち合わせておられるか? 客観的には、彼らは無政府主義者みたいである。さりとて世界連邦をめざすような見識を持っているわけでもない。『蘋果日報』に同情する気持ちの裏側に、わが国における「一国二制度」肯定論があるとは思いたくないのであるが——