論 考

『蘋果日報』問題について

 香港国家安全維持法が施行されれば、香港的自由にワッパがかかるから、『蘋果日報』の人々は、この日が来るのを予想していたはずだ。経営者はじめ記者・関係者・支持者が、それでもなおかつ突き進んだのは、信念に基づいて、地の塩たろうとしたのだろう。

 日本の新聞は、いずれも『蘋果日報』への同情の念と権力に対する憤りをもって報道している。

 かつて、中国的「一国二制度」は、よく考えられたものだと感心した。鄧小平氏の舵取りであった。尖閣問題も同様で、後世代の知恵に託して「棚上げ」した。棚上げは本質的解決に触れないのだから、知恵が至らず急げば、衝突する。

 尖閣の場合は国家権力対国家権力だから、権力が国家に本格的災いが発生する以前で足踏みする。一方、国家権力対香港『蘋果日報』の関係において、力の差は否定しえない巨大な格差である。

 デモクラシー対オートクラシーと置けば、問題は単純である。もし、かつてイギリスが中国侵略の覇者として、香港を租借しなければどうだっただろうか。少なくとも、香港は中国と共にあり、当然ながら「一国一制度」である。蒋介石の国民党が支配した台湾問題のような事態は発生しない。

 デモクラシーを掲げる国々(日本も)が、デモクラシーを掲げる国の香港租借の歴史的結果として今日の香港が存在すると考えれば、遠くから、好き放題の論評をして事足りるわけではない。歴史的視点がまったくない香港問題(『蘋果日報』)同情論には、他人事の無責任が漂う。⇒この続きは、週刊RO通信no.1413で書く。