週刊RO通信

党首討論は、何のためにあるか?

NO.1411

 6月9日の党首討論は、2019年6月19日(安倍内閣)以来で、菅内閣としては初めてであった。出来損ないの芝居に似る。演目を変えても相変わらず中身が陳腐で、木戸銭がもったいなかったとぶつぶつ言いつつ家へ帰るような気分だ。本来、主役は菅氏であるが、大根役者で、愛されないボケがそのままボケを押し出すのだから少しも面白みがない。質問されてもまともに答えないのは先刻承知であるが、悪役なら悪役らしい演技がほしい。

 野党質問の柱は、こんな状態でオリパラをやる意味とは何かを問う。菅氏は、1964年東京五輪の感動場面をなぞった。本人は、これでオリパラに突き進む理由を語ったつもりだろうが、観客の投げ銭飛ばず。思い出話をする場合かと不評たらたら。とぼけの先達片山虎之介氏が、批判の矢面に立つのは都知事だろうと同情して見せた。菅氏は、案の定乗せられた。

 陳腐極まりないやりとりだが、菅発言を意訳すれば、オリパラはやることになっているのだから、やるしかない。主催都市国の首相であるのに、敷かれた線路の上のトロッコであって、軌道上を走るだけという次第だ。「責任ははわたしが取る」と言っても中身がない。中身なき責任を取るはずもない。

 1999年、「国会審議の活性化及び政治主導の政策決定システムの確立に関する法律」ができた。目的は法律名の通り。能力不足の大臣に代わって官僚が答弁する政府委員制度を廃止、副大臣を新設した。さらに衆参議院に国家基本政策委員会を常設し、審査会を開催し、そこで首相と野党党首が国の基本政策について討論する。これが党首討論である。

 当時は、経済はガタガタ、政治もまるで人気がない。自民党総裁選で、田中真紀子氏いわく、軍人(梶山静六)・変人(小泉純一郎)に勝利した凡人の小渕恵三氏が首相となり、なんとか人々の関心を引き付けられる政治をしたいと考えたアイデアとして党首討論が生み出された。

 党首討論の目的は「基本政策」について討論する。野党4党首を並べて、全体の持ち時間45分。国の基本政策を論じて、イエスかノーかだけでは済ませられない。こんなことでは審議の活性化という言葉が成り立たない。事前に脚本を書いて、役者が練習を積んだのでもないかぎり、国の基本政策が明快に論じられるわけがない。だから出来損ないの芝居になる。

 そもそも国会議員諸氏におかれては、わが国政治がぐじゃぐじゃだという認識をお持ちだろうか。党首討論といえば、政界のスターが勢揃いして人々の耳目を集めてこそだ。党首討論の評判がよろしくないのは、日本政治の評判がよろしくないのである。庶民感覚としては当たり前のことを、与野党議員諸氏は理解しておられるのであろうか。選挙で当選すれば地位を得るのが議員であるが、たまたま自分が議員になったとしても、政治全体が人気を失えば、いったい何のために活動するのかわからないだろう。

 政治家の職業能力として、演説と討論の力が不可欠である。弁舌巧みになれというのではない。いずれの場合も語る内容こそが決め手であり、それが支持されるかぎり政治離れは発生しない。21世紀日本の政治家は遺憾ながら演説力・討論力が弱すぎる。学問が進んだとはいえ専門化・細分化され、何が何して何とやらの、いわゆる大局観的話ができる政治家が少ない。

 「基本政策」と銘打つのだから基本政策を語らねばならない。単なる質疑応答ではない。たとえば今回の党首討論でいえば、討論のテーマは喫緊のこととしては、「コロナ感染拡大リスクが大きいなかで、オリパラ大会を実施すべきか否か」と看板を掲げるべきであった。明確にテーマを掲げないから、行き当たりばったりだ。国家基本政策委員会の運営も改善せねばならない。

 さらにいえば、目下はコロナ禍でじっと耐えているのだが、やがて収束方向となれば、「いかに社会・経済を復興再建していくか」という中長期的視野のテーマについて語られなければならない。中長期的視野が皆無であったのは、日本近代化以来の宿弊と言いたくなる。たとえば、第二次世界大戦における米国のロジスティクスはわが国と比較すると天地の差であった。開戦2年ほどで連合国は戦後国際経営について討論を開始した。党首会談の質的レベルは極めて低い。それはまさに敗戦に至る総括ができず、反省せず、いまだ本気でものごとを考えない、悪しき思考的習慣の証明みたいである。