週刊RO通信

民主主義は国家主義を超えてこそ

NO.1405

 トランプ旋風が始まったのは5年前、アラバマ州での集会だった。2人の息子から勧められて、トランプ氏は気乗りしないまま会場に足を運んだ。彼が目にしたのは、見たことのない大群衆だった。そこで、彼はおそらく「面白い! 世界の王になってやる」と思ったであろう。

 そもそも彼の大統領選出馬は、退屈しのぎ、面白半分の遊びであった。ニーチェ(1844~1900)は言った。「男が熱中するのは危機と遊びである」と。遊び精神は膨大なエネルギーを噴出させる。奇才のひらめきで、「果実が熟したときに木を揺さぶる」衝動に駆られたに違いない。

 ノリのいい人物である。扇動すれば群衆もまたノリがいい。大群衆は超ノリがいい。なにを喋っても大群衆は熱狂する。片隅の抑えていた不満を放出させればよろしい。煽り煽られ、唱和を求めれば大群衆の熱狂的歓呼は止まることを知らない。これまた、遊びの核爆発である。

 予想外の展開に驚いたのはメディアも同じだ。とりわけテレビはトランプ効果を猛然と利用した。的が外れている、ハッタリも嘘も多い、ポーズは反逆者だ。アウトローくらいテレビ舞台にふさわしい玉はいない。お説教政治はご免だ、取り澄ました奴らをぶっ飛ばせ。これ、最大のショーである。

 最大のテレビCBSのムーべンスCEOは得々として語った。「アメリカにとって不都合かもしれないが、CBSにとっては素晴らしい。続々お金が入ってきて嬉しくてたまらない」。大統領トランプの誕生に不可欠の貢献をしたのはテレビである。テレビが怪異なペテン師を育てたのだ。

 1950年から54年までの異様なマッカーシー(1908~1957)旋風の再来だった。彼はお騒がせだけして忽然としぼんだが、トランプ氏は王様の演技を4年間続けた。米国人は「そそのかし」に弱いというのがマッカーシー旋風の教訓(?)だったが、トランプ旋風の教訓はまだ出せない。

 16年11月、トランプ当選が決まるや、ホワイトハウスに自爆テロリストが入ったと悲痛な声が上がった。このテロリストは、ドタバタ芝居を演じたようでありながら、社会と政治に対する「信頼」の破壊に成功した。彼はホワイトハウスを去ったが、共和党は依然投票箱への不信をわめいている。

 投票箱への信頼が回復しないなかで、バイデン氏は大統領就任100日の施政方針演説をこなした。「アメリカ・ファースト」はトランプ氏の専売特許ではない。1789年就任の初代大統領ワシントン以来一貫している。そもそも自国を一番に考えるのはいずれの国でも同じだ。

 最大の懸案は、人々の政治への信頼回復であり、米国内において民主主義が機能していることを人々に認識してもらわなければならない。トランプ氏は白人至上主義を押し出し、人々の間に思想的・感情的壁を作った。しかも、それはいまだ進行中で、一触即発の爆弾を抱えているようなものだ。

 19世紀にはナショナリズムは、ばらばらの国民意識を統合する意味から善であった。円滑に国家が形成され、さらに国際主義へと歩めば万々歳であるが、国家と国際主義の間には容易に越えがたい感情がある。外交を論ずる前に、国内に民族的分断を持ち込んだトランプ政治の事故処理が容易でない。

 民主主義は「人間の尊厳」(基本的人権)だから、その思想は超国家(主義)である。外に敵をつくるのは、「一国民主主義」であって、民主主義の精神から逸脱する。国内政治と民主主義への信頼回復を焦って、敵対する国を作り、国内的結束を固める方法は手っ取り早いが、悪しきナショナリズム・ファシズムに傾斜しやすい。それは世界の不安定さを膨張させる悪手である。

 いずこの民主主義国家であっても、獅子身中の虫は、国内における全体主義(ナショナリズム・ファシズム)の台頭である。注意しなければならないのは、全体主義が危機の原因ではなく、危機が原因で全体主義という結果を招くことである。全体主義は政治・経済・社会に原因がある。

 民主主義の「人間の尊厳」は、国家が人間社会の究極の集団単位ではないことを示している。これを無視して大国が国際秩序を作るのが覇権主義である。大国の国家主義対国家主義が生み出すのは所詮覇権主義の世界でしかない。大国は、本気で国連活動の発展に寄与せねばならない。そうでないから世界はいつまでも「閉じた国」相互の衝突が続く。