週刊RO通信

再考・人間は政治的動物である

NO.1400

 アリストテレス(前384~前322)の「人間は政治的動物である」という言葉は有名である。人間は社会なくしては生きられない。最小社会の2人でも両者の関係は1つの政治である。夫婦関係がすべてうまくいかないのだから人間社会が大きくなるほど厄介を抱え込むのは必然であり、人間社会は避けられない厄介を前提として対処するしかない。

 人間の傾向を煎じ詰めると自己中心主義になる。その人間が社会を維持発展させてきたのは、自己中心主義ではあるが、1人では生きられず、他者との協力を必要とすることを無意識にせよ認識しているからだろう。そこで、人間のもう1つの本性は他者との交際主義をもつと考える。自己中心主義が自己主張だとすると、交際主義は自己統制である。

 1970年代辺りまで、日本人は集団主義だという説が幅を利かせていたが、わたしは共感しない。集団生活を普通の状態とするニホンザルでさえ、群れから外れるのがいる。「日本人の自我はサルより弱い」というのは今西錦司(1902~1992)の名言であるが、それは長い年月を経て、社会的に訓練された結果であり、かつ、自我という観念を考えずに来たからだろう。

 むしろ日本人的集団主義は、自分が身近に属する集団において波風を立てないという処世術である。処世術を軽蔑するのではない、真の集団主義であれば、各自が集団目的の達成のために、もっと合理的に活動を作ろうという志向性が強いはずである。それどころか、波風は立てないが、できるだけ自分のことは、そっとしておいてほしいという気風が強い。

 自分をそっとしておいてほしいというのは、交際よりも気ままでいたいのであって、つまり自己中心主義=自我である。この自我は未熟である。成長した自我は、自分をそっとしておいてほしい次元ではなく、自分が属する集団や社会のために自分の意見や行動を生かしたい。それは他者の共感・理解・支持を獲得することであり、わたしは、社会的自我と呼んでいる。

 ラスキ(1893~1950)は、「国家(社会・集団)はすべて人間の良心の上に築かれる」と主張した。この場合の良心とは、自分の社会的自我を発揮しようということと同じである。もちろん、人それぞれ個性や力量があるのだから、誰もが叩き上げの政治家になろうというのではない。そのような気風がなければ国家は波間に漂うだろうという含意である。

 日本人の多くが国(民)を意識するようになったのは、明治維新前後からである。それまでは藩が国であり、被支配階層の人々にとって政治を論ずるなんてことはなかった。支配階層も「由らしむべし、知らしむべからず」で、ひたすら黙ってついてこいとした。お上の下知には逆らえぬから、できるだけ敬遠する。そして、明治も専制政治だったから、お上のご威光が続いた。

 日清戦争(1894~1995)・日露戦争(1904~1905)に勝利し、一等国気分を悦んだろうが、お調子に乗って富国強兵(正しくは貧民強兵)の軍国路線を走った。人々がお上を敬遠している間に、支配層(政治家・官僚・軍部)の自由放任な仕業が暴走する。非支配層の人々は支配層の手駒に過ぎない。

 それがもっとも露骨に現れたのが満州事変(1931)から、太平洋戦争(1941~1945)で、徴兵された人も、銃後の人も、自己主張するどころではない。本心を隠して、ひたすらお上の命令に従うのみであった。表面的には一致団結だが、客観的にはお国は波間に漂っているだけで、人々は抑えつけられていたに過ぎない。

 敗戦後、民主主義に代わった。天皇主権から主権在民への変化は天地が入れ替わったほどの意義があった。もちろん、解放されたと喜んだ人々はかなりいたが、全国民次元において、主権在民の意義が十分に理解されなかった。これはわたしの分析である。民主主義を根本の精神から理解できなかったことが、まことに残念ながら今日の政治的事情につながっている。

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 週刊RO通信は今号で1400号、1995年に創刊して27年目に入りました。筆者の知的レベルが容易に向上せず恥ずかしい限りですが、わたしたちの民主主義社会を前進させるために、考える活動を続けますので、引き続きお付き合いくださいますようにお願いいたします。