週刊RO通信

自助・共助・公助の深い意味?

NO.1373

 菅氏提唱の「自助・共助・公助&絆」について考えてみる。ずいぶん古臭い表現をしたものだと感じた人もおられたに違いない。「三助」は一般に、災害時の地域での心構えのパンフレットなどによく使われている。ここでは少し違ったアプローチをしてみたい。

 『広辞苑』を引く。自助は、――自分で自分の身を助けること。他人に依頼せず、自分の力で自分の向上・発展を遂げること――とある。

 思い出した。1871年に中村正直(1832~1891)が、英人S・スマイルズ『西国立志編』(Self Help 自助論)を翻訳し、西洋の個人主義精神を伝えた。数百人に及ぶ立志伝である。福沢諭吉(1834~1901)が、「愚民の上に辛き政府あり。御用の二字をつければ石でも瓦でも恐れ入った」と嘆息したように、人々は自助=自立という言葉とは全く無縁に生きていたから、明治の青年は大いに気分高揚した。身を立て、名を上げ、やよ、励んだのであろう、立身出世して故郷に錦を飾るという心意気である。

 中村は、品行のもっとも大切なものとして「正直誠実、一にも二にも勉強せよ」と強調した。「成功できないこともあるが、善いことを企てて、成功しなくても善人たることを失わない。ことが成就するとは、しっかりした志を維持し、勉強し、忍耐し、勇気ある」(人生を送る)ことだと強調した。地位やカネや権力を手に入れることを推奨したのではない。

 共助は、――助け合い――である。もう少し積極的な表現ならば、協力・協同(cooperation)である。他を蹴とばしてカネ儲けや立身出世にのぼせ上る連中ばかりになったら、コミュニティは混乱するであろう。

 柳田國男(1875~1962)は「学問のみが世を救う」と断言した。そのためにはしっかり自己を見出さねばならない。「史学は、人が自己を見出すための学問」だとして、民俗学一筋に邁進した。めざすは共助の人々である。しかし、「大学卒業生が生活の余暇をもって同胞全体の幸福のために学問しようという志が少ない」と嘆いた。封建社会から離れて自助は根付いたのであろうか。それにしては、社会的存在たる共助意識が育っていない。

 自助(自立)が正当に育たないから共助に届かない。「人を不幸にする原因が社会にある。われわれは公民として痛みかつ貧しい」(『明治大正史世相篇』1930)、柳田は、本当の自助の核心である「自由」の精神が育っていない。「自由の精神なきところに自治(共助)の精神は育たない」ことを指摘した。

 さて、公助は、『広辞苑』にも、他の国語辞書にもない。新聞では、菅発言の公助とは、――自助・共助の上で、政府が安全網(safety net)で守る。万一に備える社会保障――のような意味で使われているようだ。自助・共助が徹底すれば公助への関心が薄れる。そうなれば、もっとも公助の恩恵を受けるのは有権者によって選ばれた議員諸氏ということになりそうだ。

 敗戦までの憲法は、ありがたくもかたじけなくも人々を臣民として、天皇名目による命令一下、その生命は「鳥の羽」よりも軽かった。今回の公助説によれば、綱渡りをしていて落下しても、安全ネットがあるらしいから、臣民時代と比較すれば、臣民から大層な出世である(のだろうか?)。

 しかし、日本国憲法は、以前の憲法の「自分のことは自分で」ではなく、「国には市民の生活保障の義務がある」(=社会権)ことになっている。菅氏的公助説は、単に表現が古いだけではなく、150年前の『西国立志編』が大いに読まれた時代へ後戻りしたようでもある。

 たとえば、前内閣では、新自由主義を掲げ、中身は資本主義創生期方向へ舵を切り、非正規社員をがんがん増加させた。その尻拭いを「働き方改革」なる方法で被害甚大な労働者全体に押し付けた。格差が拡大するのは必然の成り行きである。働く現場で、自助や共助の出番があろうか? コロナ騒動では、安全網が危ないという警告によって、落ちない綱渡りをすべく、全面的に人々の自助・共助に委ねられた。「自粛」は、自助・共助の典型だ。

 菅氏はじめ多くの政治家諸君が、政治家的生存競争に生き残っているが、実のところ政治家は、人々の自助・共助のおかけで存在している。これを迂闊にも失念して、人々に自助・共助を唱えるなどは、みかじめ料を集めている紳士連を想起させるのである。くれぐれもご用心されたし。