週刊RO通信

日本には言論の自由がある――どの程度?

NO.1372

 ラジオのクラシック番組が終わり、軽音楽の時間が始まった。ディスクジョッキー女史が「香港の人たちは大変ですね。わたしたちは幸い言論の自由があり、政治的批判の発言もできますが」と語った。普段は聞かない番組に少し耳が立った。どうやらお天気代わりの導入だったらしく、それだけ。

 わたしも香港の人々の気持ちに同情する、情勢の推移が気がかりだ。一方、アヘン戦争以来の歴史を考えると、西側的民主主義のラベルだけに依拠して火事場見物的論評はしたくない。某大学の月刊誌で、学生たちに深い同情を表明していた先生も、いまは慎重な文章表現をされている。学生たちが外国勢力の支援を得ているとみなされるならば、贔屓の引き倒しになるからだ。

 わたしは、こちらの事情をジョッキー女史のように幸いとは考えない。なるほど、こちらは香港よりは自由らしいが、「幸い」と慶賀していられるようなものかどうか。一例をあげると、香港の人々も全員が不自由を感じているわけではない。中国が問題視することに抵触しなければ衝突は発生しない。同様にこちらでも、権力を追い込むような事態が起きないかぎり、言論の自由が権力の許容範囲にあるから、のんきなことを言っていられる。

 普天間基地の辺野古移転に反対する人々が連日抗議行動しておられる。政府は多少の面倒があるにせよ、移転工事が進められるかぎり、大目に見ているわけで、工事に本格的な支障が出るならば、反対行動に対して、もっと強硬な手立てを取る可能性がある。ジョッキー女史が、反対派に同情して、「政府の工事推進は横暴ですよ」とか、「アベノマスクごとき愚策を弄して何がコロナ対策ですか」という調子の発言を続けてみればよろしい。遠からずして降板の光栄に浴するであろう。表現する内容が勝負なのだ。

 自由というものは、それを欲する人々にとって価値がある。香港の人々が求めている自由は、それに対する中国為政者の困惑の大きさと比例する。人々が求めているものは非常に大きい。ひるがえって、こちらの人々が求めている自由が、こちらの政府をどの程度困惑させているだろうか。人々の権力に対する寛容さは、香港の人々が驚くばかりに大きいであろう。

 香港の人々とは比較にならないほど低次元の自由しか求めていない、こちらの人々が、香港の人々と比較して自由であるなどと御託を並べるのはまったく意味がない。百歩譲ってお天気の挨拶並みだというしかない。

 自民党に投票していない有権者はざっと60%である。その、かなりの人々が8年間の政権の乱暴かつ横着かつ欺瞞的政治に立腹しているはずだ。それでも、本命に対抗する石破・岸田両氏による安倍政治批判の舌鋒は鋭くない。もちろん2人とも紳士であるから、表現が上品なのだということは理解する。

 ご両人とも、一般の人々からすれば安倍氏に近い。富士山は遠くから見るべしと昔からいうが、近い分、石ころや廃棄物や、その他もろもろの隠しどころが見えているはずだ。それ以上に、自由+民主を党看板にしているが、ムラにおいてはムラの利益が第一なのであって、それを破壊するような発言をするべきではないという慎み! が支配しているように見える。世間でいうKYに背かぬように苦心しているからでもあろう。

 もちろん、世間の人々の視線がもっとピリッとしたものであれば、様子は変わる。安倍政治の8年間は、議会の価値を大きく貶めた。その核心は、言葉の価値を貶め、もって政治に対する信用・信頼を棄損した。嘘をついたり、ごまかしたり、語るべきことを語らないのも、言論の自由であろうか? 安倍氏一派はそのように考えていると見られるが、こういうのを居直りというのである。わが国の言論の自由は、どうやら建前みたいである。

 いま、日本人諸氏が自由を満喫しているのだとしたら、それは幻想であり、幻想にあるかぎり、言論の自由が核心的問題として台頭しない。本当のところ人々は言論の自由とは別に暮らしている。

 1931年末満州事変勃発後、魯迅(1881~1936)は、中学生雑誌の編集者から、「1人の中学生があなたの前に立ったら、どんな話をされますか?」と問われた。魯迅は、編集者に「いま、言論の自由がありますか?」と問い、「否」であるならば、言わずもがなであるが、「私はまず第一歩として言論の自由を獲得するよう努力すべきだと申し上げます」と答えた。