週刊RO通信

本邦初! 真の民主主義政党に育て

NO.1369

 もたもたのろのろしていたが、なんとか野党再編が形成されそうである。野党応援団も反対派(与党並びに野党側の反再編派)の応援団も、イライラじりじりしつつ眺めていたものが、形になりそうなので、わたしは、野党ならぬ野草の立場から一言書いておきたい。

 来年10月が衆議院議員任期満了である。選挙が近い。劣勢野党議員諸君が選挙目当てで、選挙互助会としての再編だという批判がある。その通りだ。政党は、与野党問わず選挙互助会である。職業政治家として立つためには、選挙の洗礼を受けねばならない。だから、この批判は当たらない。

 与党内部にも、安倍政権の乱暴狼藉にほとほと嫌気がさした人士が存在する模様だが、権力与党の魅力、選挙に勝利してきた経緯などから、堂々と諫言する動きが見えない。野党が小分立して、いかにも非力だから、もう少し存在感を上げたいという戦略は、野党にとって必然的流れである。

 もちろん選挙は一本勝負であり、やってみなければわからない。主要メディアが上品? で、率直な政権批判を控えているにしても、もっと意識調査でどかんと政権不支持が増えそうなものだが増えない。野党再編は、その事情を動かす力になるかどうか。ここ一番正念場である。

 玉木氏が、理念・政策が不一致では以前の民主党時代の反省が生かせないと語る。その通りであるが、公表された「綱領」を読むと、国民民主党側がぶつくさ言わねばならないとは考えにくい。玉木氏や合流しない諸君だけに言うのではない。ここでまず政党人の心構えを指摘したい。

 章炳麟(1869~1936)に「独にして群を形成する大独」という言葉がある。独(自分)は断固として独(意志・考え)をもっているのだが、群(同志・政党)するためには、独たるものは大きくなければならない。「大独は群する」のであって、「群しない(できない)」のは、ちっぽけな独にすぎない。

 それにしても「群は必ず独からなる」のだから、自分の独に目がくらんでしまってはいけない。自分が大事にしている独を捨てる必要はないが、その独が群を形成できないのは大独でないからである。「小たりといえども独を貫く」のは1つの選択であるが、リーダーたるもの「大独」を念頭に置きたい。

 再編の軸となる枝野立憲民主党に対しては、スキャンダルや政権批判ばかりしている。本来論議するべき課題を軽んじて、政権の揚げ足取り、足を引っ張ることばかりに熱を上げるという批判だが、本末転倒の非論理的批判である。議会軽視、スキャンダルをばら撒いたのは政権側である。

 しかも疑惑・疑問に正面から答えない、さらには官僚を矢面に立てて、のらりくらり、はぐらかし、隠す、本気や誠意がまったく感じられない。ひたすら時間稼ぎに終始した。議論におけるフェアプレイは大事だが、非フェアプレイを追及されてフェアプレイでないと反論するのはフェアではない。

 盗人猛々しいという俗語がある。盗みをしながら図太く平気な顔をして、咎められると居直って食ってかかる。議会の貴重な時間を盗んだと言われても否定できないのが、この間の政府与党の議会運営で、真面目に仕事をしていない。スキャンダルが露見したから追及されたのである。

 再編野党が単に「元のさや」に納まっただけではいけないという見解がある。これは正しい。政党活動として、前進、進化しなければならない。野党再編は端緒であって、精神誠意なく非合理的な政府与党に対して、目にもの見せる実力を涵養し発揮するための出発点である。

 「綱領」(案)の冒頭――立憲主義と熟議を重んずる民主政治を守り育て、人間の命とくらしを守る、国民が主役の政党です――とある。やわらかいが大きな志である。明治以来、わが国には真の民主主義政党がなかった。綱領が実践されるならば、わが国初の本格的民主主義政党が誕生する。

 自民党議員の多くが、基本的人権を主張する人を左翼と呼ぶ悪しき実態がある。自由民主党は看板であって、羊頭狗肉を売る体質を抱えている。巷間、左翼は嫌い、右翼は怖いから敬遠するという気風がある。民主主義を押し立てる政党を左翼というのは悪しきラベル貼りである。このような前近代的雰囲気において、民主主義らしい民主主義を築いていくのは大事業である。

 初の本格的民主主義政党としての決意を固めて大きく育ってほしい。