週刊RO通信

戦争世代からの1つの申し送り

NO.1368

 敗戦後75年が過ぎたが、歯止めなく! 日米軍事同盟が深化するのと比較して、お隣の中国・韓国・北朝鮮との関係が依然として向上しない。日々の報道はとかく賑やかで猫じゃらしみたいであって、外交を歴史的に考える社会的雰囲気を育てるには、どうも力を発揮していないようだ。

 歴史的という視点が、日本人は苦手なのか、いまだ15年戦争にかんする国民的合意が形成されていない。この時期、メディアでは「戦争を語り継ぐ」企画が多いが、単純にいえば、戦争によって苦しんだという切り口が圧倒的に多く、近隣諸国へ乗り込んで乱暴狼藉をやった反省は出ない。

 外交、個人の付き合いでもそうだが、自他をよくよく考えて知らねば空回りする。自他を的確に認識するためには、直近の事柄ばかりではなく、両者の今日的関係に至った過去の歴史を無視できない。同時代を生きていても、それぞれが担った歴史、すなわち生きている物語りが異なる。

 問題があっても、時間が解決するという。なるほど、忘却という芸当をもつ人間は少々の問題があっても時間の経過によって大方忘れてしまう。日本人は敗戦の意味をあらかた忘れてしまったらしい。世代は変わり、敗戦から75年ともなれば、それを考えようとする人も少なくなった。

 かつて日本人は他者の視線を非常に気にするといったが、周辺関係でのKY的同調意識の強さに比較すると、他国の人々が、日本人をどのように見ているかという意識が極めて薄弱である。いわゆる内弁慶気質らしい。島国根性、旧軍隊での内輪ぼめ体質が相変わらず健在である。

 というような事実! についても、歴史を勉強し、自分の頭で考えてみなければ気がつかない。古い人が死んで新しい人が生まれてきても、時間が過ぎていくだけでは、いわゆる国民的気質のようなものは新規まき直しになるどころか、営々と継続する。人間は容易に進化しないらしい。

 武田泰淳(1912~1876)は、1934年、竹内好、増田渉、松枝茂夫らと「中国文学研究会」を組織し、中国研究に打ち込んでいた。古い漢学ではなく、現代の中国文学を研究し、日中両国の文化交歓をめざした。月刊誌『中国文学』の題字は、留学中の郭沫若(1892~1978)の揮毫であった。

 研究に燃えている37年10月、泰淳は召集されて歩兵二等輜重兵(軍需品の輸送補給)として上海へ行く。初めて中国へ行った。泰淳が上陸して最初に見たのは、軍服を着ていない中国人の腐敗したもの言わぬ亡骸であった。「中国人の敵としての日本人である自分」を意識せざるをえなかった。

 ――ぼくに罰をくだすのはね、日本政府じゃなくて、中国人民だと思います。そのことだけは明らかで、もう、どうもしようがないんだな――(1973)これが、泰淳の日中戦争における1兵士、1日本人としての規定である。命令されたにせよ、積極的でなかったにせよ、これが自分の立場である。

 研究者としての自分にも痛烈な自戒の念が沸いた。(研究する国・人々)を愛することもなく、利用することばかり考えている「研究」が何であろうか。商人であろうが、文化人であろうが、帝国臣民として国家権力のおかげを被っている。その看板に隠れている自分を痛切に打つ思いであった。

 泰淳は2年後39年に除隊で帰国するが、何よりも自分に対する懐疑心が生涯消え失せることはなかった。45年敗戦——敗戦は軍事力において敗れただけではなく、戦時中の生きがい、緊張、倫理のよりどころを全て失った。「精神の戦場」における敗北だと考えた。

 ――名誉ある、犠牲的な行為と信じていたものが、実は他者を認めない罪悪の行動に過ぎなかった。日本帝国という竈(かまど)が壊れて、燃え盛っていた狭苦しい火炎の熱が消えるとともに、「人間世界」と呼ぶ広大な風が、わたしたちの全身を吹きさらした。――

 ――戦地で見た(中国の)人々は、土の如き堅固な知恵が表れ、伝統的な感情の陰影が刻まれ、語ることのない哲学の皺が深々とよっていた――

 わたしの初訪中は90年であるが、断片的に紹介した泰淳の気持ちに全面的に共感する。時移り、人が変わろうとも、このような歴史的認識と、その中における自分に対する自戒・自重に基づいて発言し行動する人間でありたい。これが戦争世代からの大切な申し送りだと確信する。