週刊RO通信

人間にとっての牙(国家)に対置するもの

NO.1366

 人間が、他の動物とは異なって、採取生活から栽培生活へ移ったのは人類始まって以来の大革命であった。穀物栽培の成果が出て、貯蔵できるようになり、数千年前に古代国家が形成された。古代国家の経営では、呪術師(集団)が大きな采配力をもったであろう。

 いまでいうならば、呪術は科学であった。今日では、科学は法則性を求めて研究を深める。その結果、予測(予言)が可能になる。コロナ対策などは予測ができない意味において呪術的であり、政治家が現代的呪術師もどきの御託宣を述べている。(これは、嫌味な脱線ではあるが——)

 中国の殷は前16世紀から前1023年まで続いた。前14世紀には甲骨文字、前10世紀には金文(周時代)、前3世紀末には篆書、さらに3世紀に隷書、7世紀に楷書へと進む。殷は、甲骨文字に加え、手の込んだ青銅武器、祭祀用器の鋳造技術をものしていた。確固たる文化文明である。

 殷最後の王は紂である。能弁・敏捷・利発・勇猛であった。離宮を数多建築し、動物園も作った。酒池肉林の長夜の乱痴気騒動と、愛妾妲己とのペアマッチによる淫楽・残虐性と、贅沢三昧のための重税で人心が離反し、ついには周武王によって滅ぼされた。

 古代国家というが、国家としての体裁はすでに出来上がっており、大きくみればずっと時代が下がっても、国家自体(の在り方)は大きく変貌しておらず、開発された古代国家の枠組みのなかで、国家システムを生き残させるためのメンテナンスばかりやってきたようにも思える。

 霊長類研究の今西錦司(1902~1992)は、個を超える個体をスーパーオイキア(超個体的個体)と呼んだ。国は牙を持つ、さらに生存権を主張して牙を鋭くする存在だと主張した。牙は外向けだけではなく、内にも向く。さらに、戦争衝動は国(民族)のカルマ(業)ではないかとも指摘した。

 今西説は面白く牽引力が大きい。しかも現実の世界をみれば、予言は当たっている。まことに世界はきな臭い。しかし、それでは人々はおおいに困る。戦前派の今西氏と異なって、わたしは戦後派(敗戦1年前生まれ)である。後世代が前世代に唯々諾々従うだけでは情けない。

 第二次世界大戦終了時、もう戦争はこりごりだと考えた人が多数派だったと思う。しかし、大概の人は巻き込まれたと考えただろうし、少なくとも国民分の1の責任を背負っているとは考えなかっただろう。もし、自分の責任から目を離さなかったのであれば、いまの世界はだいぶ景色が違うはずだ。

 自省する人間としては、歴史の過程で、「なぜこんなことに?」とか、「どうすればいいのか?」「これでいいのか?」など考える機会があるのではないか。しかし、わが国を考えても、廃墟と混乱であったから、生きるために精一杯で、考える時期を逸してしまった面が大きかったのではなかろうか。

 多くの人々が自省する時期はしょっちゅう訪れないし、その期間も長くはない。いまは、どうだろうか? 内外にけったいな政治家が多く、連中は自己保身のための身づくろいが最優先みたいである。敗戦後とは異なるが、牙だけ持った国が舵取りを失ってよろよろふらふらしている。

 矮小な人間が巨大な権力を持つと決定的に危険だという認識が、いま世界中の良識ある人々の頭の中に立ち上がっていると思いたい。国家の牙を統御するのは国民1人ひとりである。人民による政治、デモクラシー精神の出番である。デモクラシーは、自由と平等が基本的理念である。

 人間社会は、古今東西一貫して、人々の自己決定と権力意志との間の闘争である。言い換えれば、民主政治と独裁政治のそれぞれの価値の闘争である。政治家は「人々のための」政治をするというが、これは違う。「人々による」政治の手足になるというのが正解である。この理解が極めて薄い。

 世界史をみれば独裁政治の期間が圧倒的に長い。権力は、統治と管理が機能的にも目的となる。かくして放置すれば限りなく独裁政治に傾斜する。デモクラシー精神とは、統治の効能を目的とせず、1人ひとりの自由の最大可能性を追求し保障することである。これを忘れてはならない。

 人民の、人民による、人民のための政治――を形成するためには、「人民による」政治を最大に機能させねばならない。