週刊RO通信

検察OBの憂国の情--暴政弾劾

NO.1355

 安倍氏一派に、政治学史をまともに勉強した人がいるならば、15日に森法務大臣宛てに提出された、検察OB14氏の「検察庁法改正反対意見書」を読んで、背筋が寒くなったであろう。まことに憂国の情が溢れる諫争の文章である。封建時代においても、忠誠心の純粋結晶は諫争にありと言った。

 黒川弘務検事長が2020年2月8日、63歳で定年退官のところ、閣議決定によって定年を半年延長した。これによって、定年延長された黒川氏が検事総長に就任する道を開いた。安倍氏一派の露骨な人事介入である。

 検察庁法は国家公務員法に対して特別法であるから、検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されないが、安倍氏が2月23日に「検察官にも国家公務員法の適用がある」とした。法改正の手続きなく従来解釈を内閣が変更したのである。4月17日に野党が閣議決定撤回を求めたが官房長官はこれを突っぱねた。無理が通れば道理が引っ込むの典型である。

 しかも検察庁法改正案第23条⑤において――次長検事、検事長は63歳の定年に達しても、内閣が必要と認める一定の理由があれば1年以内の範囲で定年延長できる――とした。内閣の裁量で定年延長を可能とすることは、従来、政界と検察の関係において、政治は検察人事に介入しないという慣例を破棄するものである。検察を懐にいれないと不都合が生ずるらしい。

 検事長を含む上級検察官の役職定年延長に内閣が介入することになる。ところで、検察官は公訴権を独占する。政財界の不正事犯も検察公訴権の対象である。検察官は準司法官ともいわれて司法の前衛を担っている。人事権を背景に、時の政権の圧力で起訴されたり、されなかったりするような事態が発生すれば刑事司法の適正公平が崩れるし、検察官が自由に働けない。

 本来国会の権限である法律改正手続きを経ず、内閣による解釈だけで法律運用を変更するものであって、これでは、フランス絶対王政時代のルイ14世の言葉「朕は国家なり」という中世の亡霊のような言葉を彷彿させる姿勢であり、三権分立主義の否定につながりかねない危険性を含んでいる。

 「意見書」は、みごとな文章である。ぜひ、お読みいただきたい。さて、わたしが、背筋が寒く云々と書いたのは、ジョン・ロック(1632~1704)『統治二論』(「政治二論」1690刊行)に触れ、「法が終わるところ、暴政が始まる」を引用していることである。わざわざ岩波文庫と注記してあるのは、政治家諸君がたぶん読んでいないだろうからお読みなさいという示唆であろう。

 ロックのいう暴政とは、――「(政治家が)権利を超えて権力を行使することであって、何人もそのような権利をもつことはできない」のである。法でなく、自分の意志を規則として、人民の固有権(本来人々のものとして所有するもの)の保全でなく、自身の野心、復讐の念、貪欲さ、その他気まぐれな情念の満足に向けられるような権力の行使である。これ、まさしく、モリ・カケ・桜を指していると読むこともできる。

 ――人民の統治と人民の固有権の保全のために、誰かの手に置かれた権力が、それ以外の目的のために適用されて人民を窮乏させ、困惑させ、権力をもつものの恣意的で気ままな命令に服従させるために利用される場合には、その権力は1人であろうと、多数であろうと直ちに暴政に転化する。だから、「どこにおいても法が終わるところ暴政が始まる」のである。

 ――為政者は一定の範囲で一定の目的のために権威をもつのであって、(それが)法に反する限り、いかなる権威もありえない。

 『統治二論』は330年前に刊行以来、古今東西脈々と読まれ続けてきた。その結論は、為政者が恣意的な政治をするのであれば、人民は、どのようにして自らを救うべきか思索せずにはいられない。ロックは、人々は身勝手な為政者の権威に従う必要はさらさらないし、そのような為政者に対しては、断乎たる抵抗や革命の必要性があると説くのである。

 「意見書」の締め括りは――検察庁法改正法案中、幹部の定年延長を認める規定は撤回されることを期待するが、そうでなければ、与野党問わず国会議員、法曹人、心ある国民すべてが検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。――

 これは間違いなく安倍暴政に対する決別宣言である。賛成!