週刊RO通信

Stay-at-home

NO.1352

 ドイツの動物学者J.J.ユクスキュル(1864~1944)の『生物から見た世界』(1933)の柱となる有名な理論は、「環世界」である。動物は周囲に広がっている環境から、自分の存在を支えるために好都合な網を織り上げる。この網を「環世界」と称する。環境は単に存在しているもので、「環世界」は動物(主体)が作ったものである。

 その中に「家(Heim)と故郷(Heimat)」という一節がある。ホームとホームタウンである。クモは巣を作って活動する。巣は家であり故郷である。

 モグラはクモの巣のようなトンネルシステムを作る。トンネルと地表との間は食料の狩場で、モグラは土中の食物を5~6センチ離れていても察知できる。トンネルシステムの真ん中には枯れ葉を埋め込んで家を作る。これらは共通してホームとホームタウンを持つ。動物にとってホームは自分の定点である。ホームタウンは狩場で、自分の狩場は断固として守る。

 このほど「ステイホーム週間」という和製英語が登場した。英語では「Stay-at-home」という言葉がある。出不精のとか、(働きに出ず)家にいる、専業主婦などの意味である。

 ところで、新聞の女性の投稿を読むと、最大の難点は家族揃って1日中在宅していることらしい。思い出せば1985年に「家庭内離婚」、86年に「亭主元気で留守がいい」、87年に「5時から男」、88年に「濡れ落ち葉」、99年に「育児をしない男を父とは呼ばない」などのコピーが巷に流行した。

 当時は、妻にとって夫の在宅が煩わしいという本音が多かった。父親の下着だけ家族のとは別に洗濯するという差別事件! もあったりして、家族に親和性の薄い嫌われオヤジという気風もあった。

 最近は父親が子どもを抱いて、家族お揃いで歩く姿をごく日常的に見る。マイホーム意識が定着したと思っていた。夫婦共働きが多く、子どもは幼い時分から塾通い。お互いに多忙を極めている。なかなか全員集合とはいかないから、ステイホームであれば、家が窮屈で、なにかと不自由が多くても、家族団らんを楽しもうというという雰囲気になるのではないかと考えたが、事はそう簡単ではないらしい。

 予想もしなかった異変で、家族それぞれの日常生活習慣が変化し戸惑っている。たまたまコロナ禍によって、現代人生活の何たるかにスポットが当たったようだ。大昔の家族主義時代とは異なって、現代は事実として個人1人ひとりに立脚して考えねばならない。

 理屈をいえば、まことに不条理ではあるが、目下はコロナ禍をなんとか克服しなければならない。これが家族チーム全員に共有されねばならない。たぶん幼児を除けばこの事情は理解できるのだが、上から指示が下りてきたような気持ちがごそごそして、自分の主体的意志になりにくい。

 たとえば、自粛しているのに「あいつら遊びに行った」、「あそこの店が営業している」などと110番する。他県ナンバー車が止まっていたので一発へこましてやったなどは、お上に嫌々従っていることの八つ当たりだろう。

 次に、従来各人が(無意識であっても)構築していたホーム意識は全員集合のそれではなかった。家族揃って朝ごはんを食べ、夕餉の食卓を囲むことすら非日常的になっているのが現代の家族生活である。1980年代ごろは、その非日常生活を何とか変えたいという気風があったが、30年過ぎて非日常生活意識と日常生活意識が入れ替わり、倒錯しているかもしれない。

 ワークライフバランスという、わかったようでわからないコピーがある。それがめざす人間像は「よき会社人・よき家庭人・よき社会人」である。長時間労働で、仕事をやっつけることで精いっぱいのお勤め人にとっては、なんとも意味不明であろう。ダイニングルームでの安倍氏主演による呼びかけが大反発を食らったのも、現実を無視して建前をばらまいている性癖に人々が気づいたからであろう。

 350年前に刊行されたパスカル(1623~1662)の『パンセ』には、「人間の不幸は部屋の中に静かに休んでいられないことから起こる」という平凡であるが、平凡さの中に痛切な含蓄ある言葉が書かれている。ステイホームが、社会を動かす意識のための静かなる地雷になるかもしれない。