週刊RO通信

コミュニケーションの意義の再認識を

NO1349

 日本でコミュニケーションの理論が一般化したのは戦後である。米国流コミュニケーションの機能面(方法論)ばかりが押し出された。しかも、義理と人情の日本的人間関係円滑論の上に重ねている。コーチングのような技術論ではなく、お互いの信頼感を深める真摯な対話を積み重ねたい。

 2002年ライフビジョン学会で、「いま、職場で何が起こっているのか」と題する連続シンポジウムを開催した。1990年代半ばから吹き荒れた雇用問題がなんとか落着しつつあった。職場のコミュニケーションについて盛んに意見が交わされた。大方は、コミュニケーションがよろしくない、十分な意思疎通ができず、職場の沈滞化が懸念されていた。

 なぜコミュニケーションがよくないのか。某エレクトロニクスメーカーの設計職場の事例が出された。「コミュニケーションの必要性を感じていない」という。コミュニケーションを前提して話しているのであるから、わたしは非常に驚いた。「自分の仕事が個人商店化していて職場で話す必要を感じない」。「朝出社して夕刻退社するまで誰とも話さない人がいる」云々。

 個人商店化というが、正しくは分業である。分業とは協業である。他者との連携不要論は、人間労働を貶める。人間はオートメーションの機械の1つではない。会話を楽しみに職場へ来るのではないから、ひたすら自分の職分に精進するのが悪いのではないが、これではチームワークが成り立たない。

 一昨年、中小の100労働組合の役員をインタビューしたときも、共通してコミュニケーションがよくないという見解であった。自分1人で仕事が完結しているのではないから、なにかと問題が発生している。他者との接触・関わり方が下手だとか、組織風土自体に問題があるなど指摘された。

 いまは、ウイルス対策で社員全員が揃って働けない。時間をずらしたり、分散したり、自宅で働く形が拡大している。しかし、働く場所がどうであろうと所期の目的を達成できればいい、煩わしい他者との接触なくして働けるならば、むしろ大歓迎――という人が多いとは考えにくい。

 新しい分散型の働き方の提唱も目立つ。いまは緊急対策として仕方がないとしても、ここは慎重にじっくりとコミュニケーションの意味・意義について考えたい。たとえば、コミュニケーション・ツールが発達したが、コミュニケーションの質が高まらないのは誰もが認めているであろう。

 HowよりもWhatこそが問われている。人間が社会を作ったのはコミュニケーションできたからである。社会や組織は、「はじめにコミュニケーションありき」である。そもそも、対面している職場でコミュニケーションが不十分であるのに、分散化して向上するわけがない。

 自分1人で完結する仕事は発展しにくい。出来上がったような仕事でも、他の仕事と交流し、相互に刺激を与えあうことによって変化する。仕事をする人間同士が交流する。孤独な人間同士が交流して相互に刺激をうけて成長する。人が成長するから仕事が成長するのであって、その逆ではない。

 企業の変革は、「新商品開発・販路拡大・生産方法変革」の3つに集約される。個人商店といえば独立独歩のような雰囲気があるが、実際は組織における分業であって、分業である以上、仕事はつねに全体目的との関係で追求され、改善されねばならない。分散して縦のつながりが維持されても、横のつながりが向上しなければ、さらなる効率が上がるとは考えにくい。

 コミュニケーションがうまくいかないのは個と全体が調和していないからである。官僚的システムによって、上意下達で仕事をこなしている状態からは、自分は組織の歯車であるという意識に陥りやすい。縦社会の歯車意識が支配する組織は忖度官僚のみならず不祥事が発生しやすい。権威による上意下達主義では人々の自主的判断が育たず、無責任の気風になりやすい。さらには分業の殻に閉じこもるために保守的・消極的にもなりやすい。

 個が集まって組織を作る。自分が組織を作っているという意識が高まるとき、コミュニケーションが成立する。社会や組織の進化は、各人が自分の力(知恵や行動)を使って同胞の役に立ちたいという自負・自尊心によって導かれる。知恵や行動はお互いに見えて認め合うからこそさらに磨かれる。いま、厄介な時期であるからこそ、コミュニケーションの意義を再認識しよう。