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働くことと人権を考えよう

ライフビジョン学会

ライフビジョン学会公開研究会[報告]

 働く現場では差別、いじめ、中傷が続いています。働き方とは基本的人権の問題です。多くの労働問題は人権闘争です。では「基本的人権」とはなにか、差別とはなにか。

 ライフビジョン学会は2019年11月9日(土)午後、国立オリンピック記念青少年センターで「働くことと人権を考えよう」と題する公開学習会を行いました。


世界大戦への反省と人権 

 あまり知られていないようだが、毎年12月10日は「世界人権デー」である。1948年のその日、国連第3回総会で「世界人権宣言」(The Universal Declaration of Human Rights)が採択された。その後、「世界人権デー」と命名されて毎年世界各国で記念行事がおこなわれるようになった。

 ――人権とは、人が生まれながらにもっている権利である――

 次のようなエピソードがある。ルーズヴェルト米国大統領未亡人で、熱心なリベラリストとして知られるエリノア・ルーズヴェルト(1884~1962)が、国連人権委員会委員長として異常な努力を払って、18カ月という超スピードで総会採択に成功した。東西世界の対立が激化しており、議論の調整は極めて難航したが、棄権はあったものの満場一致という画期的な採択であった。

* 出席56か国(欠席2か国)のうち、賛成48か国。棄権8か国(ソ連・白ロシア・ウクライナ・チェコスロバキア・ポーランド・ユーゴスラヴィア・サウジアラビア・南アフリカ連邦)。ベルリン封鎖開始は48年6月24日。

 東西冷戦が加速中であった。とはいえ、20世紀に2つの世界大戦が勃発し、全世界で7,000万人を超える人々が落命された。それぞれの国がわが大義を掲げて戦争したのであるが、巨大な暴力と破壊力がもたらしたものについて、当時の良識ある人々は深い反省と未来への粛然とした思いを抱いていた。世界の「見えざる」世論(=人権の重たさ)が宣言採択の背後にあったと考えたい。

 国際社会は、主権国家を単位として構成される。国際法は国家間関係を規定するが、従来、個人の基本的人権が国際社会において問題になることはなかった。つまり、デモクラシーを掲げる国家が増えたことも意味する。

 これより2年早い日本国憲法は、第3章に「基本的人権」の尊重を基本原則として掲げた。世界人権宣言とほぼ同じ内容である。これは日本国憲法に対する日本人の誇りである。1952年4月28日発効したサンフランシスコ講和条約(対日講和条約)の前文にも――日本が宣言の目的実現に向けて努力する――と記されている。

国家主義の否定 

 世界人権宣言の前文は――人類社会のすべての構成員の、固有の尊厳と平等にして譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由と正義と平和との基礎であるので――と書き始められている。

 人間は生まれながらにして尊厳=人権をもっている。そもそも人間は、国家が発生する以前から自由で平等な人間として存在した(推測ではあるが事実だとして間違いないだろう)のだから、国家がこれを侵してはならない。人権の第一の胆は「自由」と「平等」である。

 人々は、生命・自由・幸福を追求するために国家を作ったはずだ。国家があって国民があるのではない。はじめに人々がいて国家を作った。人民が国家というシステムを作ったのであり、国家の主人公である。国家主義は否定される。

 * 国家主義 国家を人間社会において第一義に考え、その権威と意思に絶対優位の立場を認める。全体主義の傾向が強く、偏狭な国粋主義に走りやすい。

 歴史を概観すると、イギリスの「マグナ・カルタ」(1215)、「権利請願」(1628)、「権利章典」(1689)、アメリカ独立宣言(1776)、フランス革命(1789)で「人および市民の権利宣言」が、人権宣言の流れを作った。

 自由な国家を求める理念は、人々の自由な権利を守るために、専制的な支配権力に対する反抗・抵抗から形成・確立された。「平等」「自由」の概念は人々が人間らしく生きるために不可欠のテーマである。この流れが今日いうところの「基本的人権」の観念へと発展してきた。第2次世界大戦では、全体主義国家が際立って国民の人権を無視していること、それと外国に対する侵略行為が密接につながっているという認識が高まった。

 すなわち、自国民の生命・生活を大事にしないような国家が世界平和の道を歩むことはない。「基本的人権」を発展させるデモクラシー国家こそが世界平和の主導力たるという観念が確立したのである。ここにおいて、基本的人権を確保する民主主義は、単に1つの国の中での問題に止まらず、それが国際関係において、世界平和を構築する重大な要件であるという観念が立ち上がった。戦後日本の、護憲・民主主義、平和主義の考え方も、それに通ずるものであった。

 なお、世界人権宣言第23条では、① 職業選択の自由・公正かつ有利な労働条件・失業の保護。② 同一労働同一賃金の原則。③ 人間の尊厳に価する生活の保障。④ 労働組合を組織する権利・加入する権利。――が掲げられている。さらに第24条では、労働時間の合理的な制限と定期的な有給休暇を含む休息および余暇を得る権利を有することが掲げられている。

人類の自由獲得の努力

アメリカの人権宣言 

 世界人権宣言と直結しているのは、アメリカの独立宣言である。後にアメリカ第3代大統領に就任するトーマス・ジェファーソン(1743~1826)が草案を作成した。独立宣言の起草は5人委員会に委ねられた。委員でもっとも若い32歳のジェファーソンが起草に着手したのは1776年6月11日、同7月4日にそれを審議した第二大陸会議は全会一致で可決・公表した。

 それは当時、「アメリカ人の精神の表明」といわれたが、J・ロック(1632~1704)のイギリス政治思想を受け止めて表現したものである。以下に、アメリカの独立宣言「1776年7月4日、コングレス(congress)において13のアメリカ連合諸邦の全員一致の宣言」のさわりの部分を抜粋する。

 われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。また、これらの権利を確保するために人類の間に政府が組織されたこと、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形態といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、かれらの安全と幸福とをもたらすべしと認められる主義を基礎とし、また権限の機構をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。

 要点を引き出すと――

 ① すべての人間は、平等に造られている。

 ② すべての人間は、天賦の権利を与えられており、そのなかに生命・自由・幸福の追求が含まれる。

 ③ それらの権利を確保するために人々が政府を造った。

 ④ 政府の正当な権力は、人民の同意に基づくものである。

 ⑤ いかなる政治形態であれ、人民の権利を守る目的が傷つけられたときには、人民は、それを改廃し、新しい政府を造る権利をもつ。

 人間の尊厳(侵してはならない権利)を人権(法律用語)とするのである。アメリカの独立宣言の基調には、なんといっても、All man created equalの精神が脈々と貫かれている。それゆえ、そこから、a government of laws, not men(法の支配-人が人を支配するのではない)が引き出されるのである。

 以前の王権神授説(Theory of the divine right of kings)においては、帝王の権力は神から授かったものであるから、王や取り巻きによっていかなるデタラメがおこなわれても、それに対して人民には反抗する権利がないとされていた。J・ロックらが王権神授説を敢然と論駁した。それをうけて、人権宣言は、専制的国家を許さず、個人の自由を守る立場を闡明したのである。

フランスの人権宣言 

 フランス革命の際、1789年年8月26日に可決採択されたのが「人および市民の権利宣言」である。これは、アメリカの独立宣言などを拠り所としている。アメリカ独立戦争に従軍したフランスの人々によって伝えられ、さらにJ・J・ルソー(1712~1778)を尊重するフランス流に起草した。これが、多くの国々に影響を与え伝播したのである。イギリスからアメリカへ移った思想が、再び欧州へ跳ね返ったというわけだ。それを抜粋する。

 第1条 人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。

 第2条 あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである。これらの権利は、自由・所有権・安全および圧制への抵抗である。

 第3条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威をおこないえない。

 第4条 自由は、他人を害しないすべてをなしうることに存する。(以下略)

 第5条 法は、社会に有害な行為でなければ、禁止する権利をもたない。(以下略)

 この人権宣言では、前文に――

 人権の不知・忘却または蔑視が公共の不幸と政府の腐敗の諸原因に他ならない——、人の譲渡不能かつ神聖な自然権を展示する——社会統一体のすべての構成員がたえずこれを目前において、不断にその権利と義務を想起するようにするため——など、人の平等と自由について高らかに宣言している。

「不断にその権利と義務を想起するように」という部分が大切である。なんとなれば、「譲渡不能かつ神聖な自然権」というものは、社会を形成する人々がお互いの約束(社会契約)として不断に認識しなければ画餅でしかないからだ。封建社会の根底思想とデモクラシー思想は天地が逆転したのと等しい。既得権益にこだわるのは人情であるし、新しい約束は常に確認されなければ成立発展しえない。

大日本帝国憲法にも自由権が並んでいる 

 大日本帝国憲法が発布されたのは1889年年2月11日である。たまたまフランス革命(人権宣言)から100年後である。大日本帝国憲法は、欽定憲法であって、王権神授説の復古調であるが、人権宣言でいう人権の目録が列挙されている。奇妙に感ずるかもしれないが事実である。

 大日本帝国憲法第二章「臣民権利義務」がそれである。いわく、居住及び移転の自由(第22条)、人身の自由23、24条)、住所の不可侵(第25条)、信書の秘密(第26条)、所有権の不可侵(第27条)、信教の自由(第28条)、言論・集会・結社の自由(第29条)となっている。

 自由権の目録が大日本帝国憲法にあるとはいうものの、そもそも人権そのものが認められていない。天皇(意志)が許容する範囲内の、すなわち「臣民の権利」であった。当時の権力階層が人権について理解していたとは考えにくいのであるが、ともあれ、維新から20年後の、頑迷固陋な頭であっても、世界の憲法の潮流を無視できなかったというのが事実であろう。

 敗戦後の憲法論議の際、たとえば憲法学の大御所である美濃部達吉(1873~1948)や、憲法問題調査会で政府の憲法草案策定を担った松本烝治(1897~1954)は、全面的に改正しなくても手直し程度でよろしいと考えていた。しかし、敗戦までの天皇制と(ポツダム宣言が要求した)デモクラシーとは、根本的に考えれば水と油である。

 美濃部は、大日本帝国憲法を配慮して運用すれば、ポツダム宣言の要求を満たされると考えた。松本は、宣戦や講和について天皇が勝手にやるのではなく、議会が協賛するようにすればよい。全体に字句修正程度で間に合うと考えていた。これでは、日本がもたらした戦争が世界からどのように見られていたか、ほとんどわかっていない。だから、ポツダム宣言の意味も理解不十分であったというしかないのである。

 そして、なによりも――大日本帝国憲法下の人々(支配層も被支配層も)が、「臣民の自由」なる不自由なものに対して痛痒を感じていなかったという大きな事実を見落としてはならない。思うに、封建社会に生まれて育った人々は、社会がもつ大矛盾に気づかなかったのであろう。それが760年余も封建社会が続いた理由である。

 敗戦後、立命館大学学長としてデモクラシー育成に尽力した末川博(1892~1977)は、日露戦争直後には中学生だった。アメリカ独立戦争時代に活躍したP・ヘンリー(1736~1799)の有名な演説「Give me liberty or give me death」(われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ)を知ったとき、自由・平等・平和なんて言葉は空虚なものだと感じたと述懐した。

 やがて三高生になった。一高の学生は「自治」、三高は「自由」を高らかに唱えていた。1912年、たまたま護憲演説会に野次馬で出かけて、警官が弁士に向かって「弁士中止」と怒鳴るのを目の当たりにして、「これが臣民の自由たるものか」と痛感した。25年治安維持法が施行され、「忠君愛国」「国体明徴」「大政翼賛」「一億総決起」などの言葉が次々に登場し、38年国家総動員法、41年対米英開戦、43年学徒出陣の奔流に巻き込まれて、恐怖政治が人間性を否定することを身に染みて感じさせられた。

基本的人権=生存権

自由国家観から社会国家観へ 

 19世紀後半、夜警国家という言葉があった。国防・治安・若干の公共事業など必要最低限の活動しかしない。国家権力が巨大化すると人々の生活に介入する恐れがあるから、個人の自由権を最大尊重すれば、国家は夜安心して眠られる程度の活動でよろしいという理屈である。

 アメリカ独立宣言(1776)やフランス革命(1789)の人権宣言は、いわば、国家=権力が、個人の自由権を侵さないようにということから出発している。そこで、これらを「自由国家観」だと表現する。ところで、自由が保障されても、自由放任で、力のある連中が好き放題やるのであれば、人々の生活はうまく立ち行かない。

 そこでフランスでは、「1793年6月24日憲法律ならびに市民の権利の宣言」が採択された。これは先の人権宣言を補強する目的の内容である。その第21条に注目しよう。

 第21条 公の救済は、一つの神聖な負債である。社会は、不幸な市民に労働を与え、または労働することができない人々の生存の手段を確保することにより、これらの人々の生計を引き受けなければならない。

 これは、自由権から労働権に進み、生存権に着目した意義をもっている。生存権が確立してこそ、社会が存立できるのだという大きな気づきである。

 19世紀後半になると、全ドイツ労働者同盟を組織したF・ラサール(1825~1864)のように、「自由放任はまずい。労働者の窮乏を救うべく、国家を労働者の解放のために役立たせなければならない」という主張が登場した。従来の国家観は、自由権の保障を掲げた「自由国家観」であるが、労働者にとっては、自由権を保障だけでは、貧乏の自由であり、失業の自由に過ぎないと主張した。

 なるほど、自由権を保障することは生存権を保障することでなくてはならない。人間らしい生活を保障してはじめて自由の意味が生きるというわけだ。ここにおいて、市民・労働者が国家に対して生きる権利を主張したのである。そこで、「自由国家観」に対して「社会国家観」という表現をする。この流れが20世紀に入り、2度の世界大戦の過程で世界の人権の考え方の大きな柱に育つ。

 1946年10月27日のフランス「第四共和国憲法」前文では、1789年「人および市民の権利宣言」を前提として、自由権をさらに発展させて、次のような内容を掲げた。(抜粋)

 婦人に男子と同等の権利を保障する。

 労働する義務および職務を得る権利。

 職業組合的活動によりその権利および利益を擁護。

(組合の)罷業権は、これを規律する法律の枠内で行使される。

 労働者は代表者を通じて、労働条件の集団的決定および企業の管理に参加する。

 個人および家族に対して、その発展に必要な条件を確保する。

 児童・母親および老齢の労働者に健康の保護・物質的安定・休息および閑暇を保障する。

 労働不能の状態にあるときは、共同体から適当な生活手段を取得する権利を有する。

 国家は、児童および青年が教育・職業教育および教養を均等にうけ得ることを保障する。

 フランス共和国は——国際公法の諸規定に従う。それは征服のためになんらの戦争を企図することではなく、いずれの国民の自由に対しても、決してその実力を使用することはない。

 相互主義の留保の下にフランスは、平和の組織および防衛に必要な主権の制限に同意する。

 上記は、① 男女同権を明確に打ち出した。② 社会権を尊重することを明確に打ち出した。③ 国際協調、平和主義への傾向を明確に打ち出した。――フランス革命を基点として、着々と人権が発展するように憲法を改良していく姿が明確である。かくして、この流れが、国連で採択された世界人権宣言へと脈々続いたのである。

日本国憲法における生存権

ポツダム宣言(1945.7.26

 ポツダム宣言は、日本の戦争降伏条件と戦後(占領)の対日処理方針が記載してある。その10項に――

 10 吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は國民として滅亡せしめんとするの意圖を有するものに非ざるも吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戰爭犯罪人に對しては嚴重なる処罰を加えらるべし。日本國政府は日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由竝に基本的人権の尊重は確立せらるべし。

 これを受けて基本的人権については、日本国憲法の、

 第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 日本国憲法の場合、フランスのように「自由国家観」から「社会国家観」への道を辿らず、はじめから「社会国家観」の憲法として登場した。

 まず、自由権(自由国家観)は次の条文に列挙されている。

 第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 ○2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 ○3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 ○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 ○2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

 第23条 学問の自由は、これを保障する。

 次に生存権(社会国家観)を示す条文である。

 第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 ○2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。 ○2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。 ○3 児童は、これを酷使してはならない。

 第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

 第25条の「健康で文化的な最低限の生活」というのが生存権そのものを意味している。それは、人間らしい、人間としての生活にふさわしいものでなければならない。これは、「自由権」と「社会権」の2面性をもつ。すなわち「自由権」を強調すれば、国家の不作為(介入しない)を要求するのである。一方、「社会権」を強調すれば、国家の積極的作為(介入)を要求するのである。

 第25条の生存権を基盤として、第27条で勤労権を掲げ、いうならば完全雇用(失業の消滅)を国家的目標とすると同時に、国として最低限度の労働基準を掲げて、働く人の生存権を守ろうとしている。さらに第28条では、勤労者の団結権・団体交渉権・その他の団体行動権(争議など)を認める。国の介入によるのではなく、働く人自身が人生にふさわしい働き方を追求しなさいというのである。

 * 労働三法 労働基準法・労働組合法。労働関係調整法。

 昨今の話題では、賃金決定に政府がくちばしを挟んでいる。いまは、賃上げ方向に介入しているが、これを当然とするならば、賃上げ反対に介入する場合も認めなければならない。実際、1980年代までは、政府は賃上げが物価を引き上げるというアナウンスを盛んに流して賃上げを牽制した。このような事情を考えると、第25条・第27条・第28条が並立している意義をじっくり考えて、組合活動をさらに活性化させなければならないと思われる。

近代日本の歴史から学ぶ

 ――戦前の日本では、国民の熱意と善意を一部の為政者がまちがった方向へ誘導した。結果、近代日本は「尊厳ある国家」に到達することができなかった。——一部では「尊厳ある国家」の追求を意欲した。この近代日本を率直に受け入れる勇気を欠いて現代日本の考察は不可能である――(『北の商都《小樽》の近代』内藤辰美)

 昨今、近代日本が話題に上ると、下手をすると歴史観やわけのわからぬイデオロギーが衝突してしまうことがあるが、前記の抽象化した表現は、ちまちました趣味嗜好の世界を超えて、わたしたちが直面する事情を正確に指摘しているのではあるまいか。

 思うに、明治から敗戦までの日本(人)は、地に足がついていないままに、かの「尊厳ある国家」(一等国)をめざしたのである。明治維新で一応四民平等にはなったが、かつての士農工商の意識は色濃く残り、国は官尊民卑であり、「個人の尊厳=人権」の意識は少なかったであろう。福沢諭吉が天賦人権論を唱えても、それが人口に膾炙するところまではいかなかった。

 そして戦時体制への傾向が強まれば強まるほど、個人の尊厳が顧みられることはなくなり、全体主義体制が確立したのである。「お国のために死ぬ」という言葉が拡散したが、自分が作っている国であり、自分の尊厳のために戦争するのだという自分のための大義はおそらく獲得しえなかったに違いない。国家の尊厳を求めて戦争したとしても、個人の尊厳を求めたのではなかった。

 昨今、政治家が求めているのも「国家の尊厳」であると考えられなくはない。一方、それは「個人の尊厳」に裏打ちされたものであろうか? いかなる「国家の尊厳」を求めようとも、「個人の尊厳」が確立していないのであれば、それは、いつか来た道を再び辿ることになりかねない。

 昨今の社会・経済・政治の在り様を眺める場合、わが国が「尊厳ある国家」をめざしていると、確信をもって主張できるであろうか? そうでないとすれば、わたしたちは、この辺りでデモクラシーの基盤であるところの、「個人の尊厳=基本的人権」がどのように育っているのか、発育不全であればいかにしてこれを健全に育てるべきか。改めて考えてみたいのである。

[奥井禮喜 組合研究会2018/01/10発表]