2013/11
女子教育者 成瀬仁蔵君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ13]
 
成瀬記念館と記念講堂
 成瀬記念館は日本女子大創立80周年を記念して設立された。入口を入ると正面に赤い絨毯を敷き詰めた階段があり、2階は丸いステンドグラス窓の有る記念室となっている。教会を連想するような落着いた建築である。
 成瀬仁蔵が死の直前に揮毫した日本女子大学の三綱領「信念徹底」「自発創世」「共同奉仕」が掲示してある。
 校内に成瀬仁蔵校長が亡くなるまで住んだ家が保存されている。和風住宅であるが、畳の上にベッドを置き、居間も書斎もテーブル・椅子の生活だった。
 講堂の中央には高村光太郎製作の成瀬仁蔵胸像が置かれ、「三綱領」が掲げられている。
 明治維新後、我が国は人材育成に多くの力を投入して外国人教師を招聘し、優秀な学生を欧米に留学させ、学校制度も整備した。しかしこれは男子を中心とした制度であった。
 明治33年に女子英学塾(津田塾大学の前身)、女子医学専門学校(東京女子医科大学の前身)、女子美術学校(女子美術大学の前身)が設立されたが、何れも私塾的少人数から始まった。宣教師によるミッション系の女学校は明治の始めからスタートしているが、こちらも私塾或いは小規模な女学校であった。明治32年に高等女学校令が出て各府県に最低1校設置するよう定められたが、内容は男子中学校に準ずるとされている。
 これに対し日本女子大学校は成瀬仁蔵によって周到に準備され、明治34年に設立された。明治37年に専門学校令ができて最初に認可された女子大学である。成瀬は福沢諭吉、新島襄と並んで日本三大教育者の一人とされている。
 今回は生涯を女子教育に捧げた日本女子大学創立者、成瀬仁蔵を紹介したい。


成瀬仁蔵の生い立ちと日本女子大学校創設構想
 成瀬仁蔵は1858年に山口で生まれた。出身は周防国吉敷郡吉敷村(現山口市吉敷町)で、藩校憲章館で学んだ。維新後父親が湯田小学校の教師となった影響からか、仁蔵は明治8年に設立された県立教員養成所に入学し、卒業後は教師として奉職した。
 成瀬の大きな転機は明治10年、毛利家臣で6歳年上の幼馴なじみ、沢山保羅と会ったことだ。沢山はアメリカに留学し、キリスト教の洗礼を受けてプロテスタントの宣教師として帰国した。成瀬は沢山の話に傾倒しクリスチャンになると、教会が運営するミッションスクール梅花女学校の主任教師となる。その後は牧師と教師を主な仕事として活動する。
 やがて女子教育の夢を抱いて、1890年から5年間をアメリカに留学した。新島襄が学んだマサチューセッツのアンドーバー神学校で2年間、社会学を学び、牧師レビットの家に寄宿して女性の役割を身近に見た。1892年からクラーク大学教育学部で女子教育について研究した。
 アメリカの名門大学もまた、男子中心の教育であった。19世紀後半に女性に男性と同等の高等教育をという機運が高まり女子大学が設立されると、ウェールズレー女子大学、ヴァッサー女子大学、ブリンマー女子大学など、セブンシスターズと呼ばれる女子大学の全てを調査して歩いた。その中からウェールズレー女子大学をモデルとして、日本における女子大学教育の構想を描いたという。
 成瀬は女子教育の理念を、「女子を国民として教育すること」と定めた。日本女性が国民として義務を全うする資格を養うこと、社会の一員として一芸一能を持ち独立自活の力量を持つことを目的とし、智育、徳育、体育、実務教育を進めることとした。


成瀬を取り巻く支援者たち
 明治29年から女子大学設立の運動を始め、明治31年に創立事務所を開設した。ここで同郷長州吉敷村出身の大阪府知事内海忠勝の支援を得て、伊藤博文、山県有朋、大隈重信、西園寺公望らを紹介され、更に財界の大御所渋沢栄一をはじめ、岩崎彌之助、住友吉左衛門、三井三郎助、森村市左衛門ら多数の賛同を得た。関西の地元では奈良の富豪土倉庄三郎、鴻池善右衛門、広岡信五郎らの賛同を得た。
 その中で注目するのは広岡信五郎夫人の広岡浅子である。広岡浅子は京都三井家の出身で、経営の才覚により両替商加島屋の経営の実権を握り、加島銀行、尼崎紡績(現在のユニチカ)、大同生命などを設立した。広岡浅子は成瀬仁蔵の女子教育に深く賛同し、親元三井家を説得して東京目白台の校地を寄贈した。その後、成瀬の影響でキリスト教の洗礼を受けている。
 成瀬は女子大学設立資金の募金に6年を要して、外国の資金に依らない自立自給を目標とした。将に政財官及び教育界など広く支援を得て10万円を集め、校舎・寄宿舎などを建設した。今なら10億円〜20億円ぐらいだろか。
 明治34年、日本女子大学校は開校した。入学生は家政学部84名、国文学部91名、英文学部10名(予備科37名)、高等女学校288名。北海道から鹿児島まで全国各地から既婚者・母親・職業経験者など、出身も様々な生徒が集まった。多くの女性が女子大学に期待していた様子が窺われる。教職員は53名、大学教授は29名で、22名が東京大学教授など外部からの兼任教授であった。「幼稚園から大学まで、日本の女子教育の中心たらしめる」という成瀬仁蔵の構想は、ここに結実した。
 成瀬の女子教育に賛同する人たちの支援はその後も続き、施設が拡充されていく。森村市左衛門は森村豊明会を通じて。教育学部資金を提供し、豊明図書館兼講堂、豊明小学校、豊明幼稚園が建設された。講堂は関東大震災で被害して修復したものが、現存する成瀬記念講堂である。
 大阪財界の藤田伝三郎からの寄付で香雪化学館が設立された。香雪化学館は化学教授長井長義の設計により建設され、最新式の設備を整えた化学教室である。藤田伝三郎は長州出身の実業家で藤田組を創設し、鉱山業(秋田の小坂鉱山)、鉄道事業(阪堺鉄道)、電気事業(宇治川水力電気)、土木事業など手広く経営した。
 三井家の寄贈で軽井沢に三泉寮も建設され、学生たちの夏季教育が行われた。


日本女子大卒の女性科学者たち
 成瀬仁蔵は理科教育を重視し、家政学部の中で自然科学の教育をした。成瀬の考える自然科学とは、博物学、生理学、衛生学、物理化学、園芸学などである。その後、教育学部が新設されて数学・物理・化学・動物学・植物学・鉱物地質学・生理衛生学などの学科が設けられている。
 香雪化学館で教鞭を執った東京大学理学部教授長井長義は、東京大学を卒業後ベルリン大学に14年間留学した。ベルリン大学で博士号を取得し、帰国後は東京大学の医学部で薬学を教え、理学部で化学を担当した。卒業生にはビタミンB2の研究で農学博士となった丹下ウメ、女性初の薬学博士鈴木ひでる、理学博士高橋憲子、薬学博士辻きよなど、卒業後母校の教授として活躍している。
 成瀬仁蔵は自らを、「吾天職、教師にあらず、牧師にあらず、社会改良者なり、女子教導者なり」といっている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)


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