2013/10
女性化学者 黒田チカ君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ12]

 日本化学会は我が国が世界に誇る化学関連の文化遺産を「化学遺産」に認定する作業を進めており、平成22年度の宇田川榕菴の化学関連資料や上中啓三のアドレナリン実験ノートなど6件を化学遺産に認定した。
 平成25年の第4回化学遺産認定には黒田チカの天然色素研究標本が化学遺産(No19)に認定された。
 女博士列伝や女性科学者伝に必ず登場するのが黒田チカと保井コノである。
 黒田チカは日本で最初に帝国大学へ入学した女子学生であり、最初の女理学士である。理学博士は保井コノに続く第2号が黒田チカで、化学分野では最初の理学博士である(1929年)。


化学の道へ
 黒田チカは佐賀藩士黒田平八の三女として明治17年に生まれた。兄が2人、姉が2人、弟が2人の7人兄弟であった。教育熱心な父は当時としては珍しく女の子にも高等教育を受けさせた。
 明治8年に東京女子師範学校が設立され、その後各県に県立女子師範学校、あるいは師範学校女子部が設立されていく。明治23年(1890年)に女子師範学校の教師を育成するため東京に女子高等師範学校が設立された。
 黒田チカは明治31年に地元佐賀師範女子部に学んだが、更に上を目指して上京し、明治35(1902年)年に女子高等師範学校に進学した。文系と理系のどちらにするか迷ったが、理科の実験は学校でしか学べないので理科を選択したと云われている。
 女高師では東京大学卒で理論化学の平田敏雄教授の指導を受け、明治39年(1906年)に福井師範学校女子部に奉職した。
 明治40年(1907年)、黒田チカは第2回官費研究生に推薦された。研究科は2年間で終え、引き続き平田敏雄教授に指導を受けて、卒業後は母校の助教授に就任した。化学科には東京大学医学部教授の長井長義が講師として来校しており、黒田チカは平田教授と長井教授の実験補助を受け持ちながら直接指導を受けた。長井長義はドイツに留学し、帰国後エフェドリンを発明した「薬学の父」と云われる有名教授である。


東北帝国大学に入学
 1907年に我が国3番目の帝国大学として東北帝国大学が設立された。1911年に九州帝大、1918年に北海道帝大と続くが、帝国大学の入学資格は旧制高等学校卒業者のみに与えられていた。
 これに対し東北帝国大学理科大学は、1913年に受験資格を高等工業学校卒業者や高等師範学校卒業者、中等教員資格取得者へ門戸開放し、女子にも受験資格を与える画期的な制度を創った。黒田チカを大学入学の実力があると見込んだ長井は、黒田チカに受験を勧めた。長井は明治34年に創立された日本女子大学校で化学の教授を務めており、日本女子大卒業後母校の教授となっていた丹下ウメにも受験を勧めた。これにより黒田チカ、丹下ウメ、牧田らくの3名が合格して女子帝国大学生が誕生した。黒田と丹下は理科大学化学科に、牧田らくは数学科に入学した。この日を記念して8月16日は「女子大生の日」に制定されているそうだ。
 これについて文部省専門学務局長から東北帝国大学総長に対し、「女子ヲ大学ニ入学セシムルコトハ重大事件ニテ多イニ考究スベキコト」との書状が届けられたが、東北帝大は女子の入学取り消しはしなかった。
 理科大学化学科は無機化学の小川正孝教授、有機化学の真島利行教授がおり、黒田チカは化学のほか物理学の本多光太郎教授の講義も受講した。黒田チカは卒業研究を真島教授の下で天然色素の研究「紫紺の色素の構造決定」に取り組んだ。大正5年(1916年)に卒業して初の女性理学士となるが、研究成果は纏まらず、副手として大学に残って研究を続け紫紺の結晶から構造式を決定してシコニンと名付けた。これから黒田チカの天然色素の研究が続くことになる。


英国留学
 東北帝国大学から大正7年(1918年)に母校東京女高師の教授に復帰し、日本化学会で「紫紺の研究」を発表した。これが我が国最初の女性研究者による学会発表と云われている。化学界の大御所、東京大学の桜井錠二教授や長井長義教授から注目された。
 大正10年(1921年)に文部省から英国留学を命ぜられた。テーマは「家事に関する理科研究」であるから、ここでも文部省の頭の固さが見え隠れする。
 黒田チカを指導した東京女高師の平田敏雄教授、東北帝国大学の真島利行教授は共に桜井錠二教授の教え子であった。黒田チカは桜井教授の紹介でオクスフォード大学のパーキン教授の下に留学して直接指導を受けた。パーキン教授はロンドン大学のウイリアムソン教授に桜井錠二と共に学んだ仲間であった。


研究生活
 大正12年(1923)に英国から帰国して佐賀に帰郷している時に、関東大震災が発生した。東京女高師の建物は倒壊と焼失で失われ、女高師教授に復帰したものの授業も研究もできる状況では無かったが、授業は仮設校舎で行われ、研究は理化学研究所の嘱託研究員となって真島研究室で続けることが出来た。
 このような状況の中で紅花の研究を行い、博士論文「紅花の色素カーサミンの構造決定」を東北帝国大学に提出し、昭和4年(1929年)に理学博士号を授与された。黒田チカ45歳であった。
 その後も天然色素の研究を続け、つゆ草の青、黒豆や茄子の黒、紫蘇などを研究した。多くの論文を発表し、共同研究者も東海大学教授の和田水、お茶の水女子大学教授の岡嶋正枝など多い。研究者として黒田チカは「私は人まねが大嫌い」といつも言っていたようだ。
 戦後、新制大学お茶の水女子大学が設立されて教授に就任し、昭和27年に定年退官した後も名誉教授、非常勤講師として学生への特別講義を週1回続けたと云う。
 昭和35年、日本婦人科学者の会が発足して名誉顧問となり、紫綬褒章、勲三等宝冠章を受章、昭和43年84歳で永眠した。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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