2013/08
農学博士・化学者 丹下ウメ君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ10 ]


生誕の地を歩く
 梅雨明けの鹿児島は気温34度と猛烈な暑さで、時々スコールのような大粒の雨が降ってきた。鹿児島は幕末・維新の歴史を大切にし、県立歴史資料センター「黎明館」や鹿児島歴史探訪「維新ふるさと館」があり、さらに旧島津藩磯公園には「尚古集成館」がある。市内には偉人・賢人の銅像や顕彰碑、記念碑が沢山あり、歴史をたどることの好きな人には非常に魅力ある街である。
 今回の「科学技術の旅」は、女性化学者丹下ウメと鹿児島医学校で西洋医学を教えたウイリアム・ウイリスが目的である。
 市電の走る街の繁華街天文館通りの近くに、地元有名デパート山形屋がある。その一角に、丹下ウメの胸像があった。
 黎明館には「郷土の人々」と云う展示コーナーがある。政治家や軍人など維新の功労者に混じって、女性は篤姫(天璋院)と丹下ウメ、税所敦子(明治天皇・皇后に仕えた歌人)のみである。

藩士の家に生まれる
 丹下ウメは1873年(明治6)に鹿児島市内で生まれた。父は島津藩士丹下伊衛門、母エダも藩士の娘で兄4人、姉2人・妹1人の8人兄弟であった。父が製糖業や製塩業を営む裕福な家庭であり、次兄は慶応義塾を卒業、四兄は東京帝大を卒業して第七高等学校教授をするなど、兄弟は皆優秀であった。ウメも県立師範学校を首席で卒業して、市内の小学校の教師となった。
 ウメは3歳の時に怪我で右目を失明しており、母や姉はウメを学問で身を立たせようと考えていた。母方の親戚の前田正名男爵は農商務次官、貴族院議員であり、彼の紹介で日本女子大学校の第1期生として入学した。ウメ29歳であった。
 成瀬仁蔵は長州藩士の出身で、政財界の有力者に働きかけて明治34年に日本女子大学校を設立した。設備や教授陣も充実した本格的な女子大学校であった。丹下ウメは最年長の学生であり、学費免除で寮監となり、さらに成瀬校長の原稿整理や代筆なども引き受けた。


化学者の道へ
 日本女子大学校の化学科教授は、東大教授長井長義であった。長井はドイツ・ベルリン大学に13年間留学した俊才で、東京大学では医学部で薬学を、理学部では化学を教えていた。化学者・薬学者としての業績では、気管支喘息の特効薬エフェドリンの抽出に成功している。
 長井長義は日本女子大学校で27年間、化学の教授を務め、女子教育を大切にした。日本女子大学校には階段教室や化学実験室を備えた香雪化学館があった。これは長井自ら設計し、長州出身の実業家藤田伝三郎の資金寄贈で建てられたもので、伝三郎の雅号を冠した最新鋭の化学教室であった。
 丹下ウメは子供の頃から好きだった化学に魅せられて、長井教授から化学を学び、卒業後も尊敬する長井の助手を務め、長井の勧めで文部省の「化学中等教員検定試験」を受験した。受験者45名のうち合格者は6名で、女性は丹下ウメ一人であった。


東北帝国大学へ
 帝国大学の入学資格は高等学校卒業者と決められていたが1913年(大正2)、東北帝国大学理科大学は高等師範学校、高等工業学校、化学中等教員試験合格者に門戸を開放した。
 丹下ウメ(化学)と東京女子高等師範学校卒業の黒田チカ(化学)、牧田らく(数学)の3人が、初の女性帝国大学学生となった。丹下ウメは特待生扱いで臨時助手を務め、旧藩主島津忠重公より奨学金を授与された。途中1年を病気で休学したため、先に卒業した黒田チカに女性理学士第1号を譲るが、1918年に卒業すると更に大学院に進学して、有機化学と生物化学を専攻し、真島利行教授の指導で「カキシブの研究」をテーマとした。
 1921年(大正10)、48歳の時に文部省と内務省から「欧米に於ける理科教育及び児童の栄養に関する社会施設の調査」を研究テーマとする米国留学を命じられた。
 最初の1年間はスタンフォード大学で有機化学と生化学を学んだ。アメリカの大学での感想として、「学生たちは図書館を有効に活用していること、自分の考えを良く発表していること」と残している。続く2年間はコロンビア大学で栄養に関する調査を行い、次にジョンズ・ホプキンス大学では医学研究科公衆衛生学専攻の大学院生となり、栄養学と生化学をテーマに研究した。指導教官はビタミン類の研究で有名なマッカラム教授で、植物の成長を助ける元素(Cu、Zn、Co)の研究をしていた。この大学にはかって新渡戸稲造も留学しており、日本人の留学生が多く日本人クラブまであったそうだ。
 1927年(昭和2)に博士論文を提出して学位を取得した。博士論文は「ステロール類のアロファン酸エステルの合成と性質」であり、ビタミンDとも密接な関係があるようだ。


母校教授として女性後輩を育成
 帰国に際してはニューヨークからロンドンへ渡り、ヨーロッパ各地を視察してイタリアのナポリから地中海を船で渡り、スエズ運河を通ってコロンボ、シンガポール、香港、上海を経由して神戸港に着いた。8年間の米国留学で、丹下ウメは56歳となっていた。
 母校教授となって生物化学の授業と実験指導を行い、辻きよ、蟻川芳子などの化学者を育成した。母校の教授と兼務して理化学研究所の嘱託研究員となり、鈴木梅太郎主任研究員の研究室でビタミンの研究をおこなった。当時、理化学研究所には緑茶の研究で日本初の女性農学博士となった辻村みちよ、女性で初の主任研究員となった加藤セチ、農芸化学の道喜美代などの女性研究員がいた。鈴木梅太郎研究室は100人の研究者を擁する人気研究室であったようだ。
 丹下ウメは博士論文「ビタミンB2複合体の研究」を東京帝国大学に提出し、1940年(昭和15)に農学博士の学位を授与されている。67歳であった。
 強い信念とたゆまぬ努力により、理系の分野において女性の地位向上に果たした功績は大きい。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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