2013/05
女医の道を開拓した高橋瑞子君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ 7 ]


--縁の地を訪ねる--
豪徳寺の高橋瑞子彰功之碑

 最初に訪ねたのは済生学舎の跡である。
JRお茶の水駅の北側、順天堂大学脇の坂を登り、東京都水道歴史館の通りに面して「済生学舎発祥の地」の碑があり、その横に説明板がある。明治9年から28年間、2万1千余の学生が学び、9千6百余の医師を輩出したと書かれている。明治36年に廃校になるが、卒業生の努力で翌年に「私立日本医学校」が設立され、現在の日本医科大学へと発展している。
 東京世田谷の豪徳寺は彦根藩井伊家の菩提寺で井伊直弼ほか歴代藩主と夫人の墓が並んでいる。ここに高橋瑞子の堂々とした彰功之碑が建っている。


高橋瑞子の支援者たち

 津久井磯子―― 産婆研修を指導し、医師になることを支援した

 高橋正純―― 産婦人科の実地研修を受け入れた大阪病院の医師

 長谷川泰―― 女子の入学を初めて許可してくれた済生学舎校長

 佐藤進と佐藤志保子―― 医学研修を受け入れてくれた順天堂病院の院長と令夫人

独立心旺盛な女性
 吉岡弥生は自伝の中で、女医1号の荻野吟子を女医の生みの親とすれば、育ての親に当たるのが第3号の高橋瑞子だと言っている。
 高橋瑞子は嘉永5年(1852)に西尾藩の武士の家に生まれた。今の愛知県西尾市である。西尾藩は老中や寺社奉行を出した徳川譜代大名であったが、明治維新による版籍奉還・廃藩置県により武士の暮らしは苦しくなっていた。
 瑞子は6男3女の末っ子で、10歳の時に父母を亡くして兄夫婦に育てられた。その頃から何でも自分で行う自立心が鍛えられたのだろう。婚期の遅れた瑞子は25歳の時、東京の伯母に呼ばれて養子縁組・結婚をする。しかし婿殿が頼りなくて離婚してしまう。瑞子は過去を語らないのでその頃のことはヴェールに包まれているが、苦しい生活が続いていたようだ。


産婆を目指す
 当時の女性が自立できる職業は産婆で、瑞子は知り合いの医師から前橋在住の産婆、津久井磯子を紹介された。津久井磯子は東京府立産婆教授所の第一期修了者で、群馬県の産婆会の会長を務めていた。
 瑞子は津久井産院に住み込んで猛勉強した。津久井磯子は瑞子の優秀さを認め、自分の後継者に育だてようと東京の私立産婆学校紅杏塾に入学させた。紅杏塾の教頭桜井郁一郎は、津久井磯子が師事した産婆教習所の教授であった。
 明治15年、高橋瑞子は紅杏塾を30歳で卒業して産婆の資格を得た。しかし産婆学校で勉強するうちに、産婦人科の女医になる大きな希望を育てていた。実は津久井磯子の夫は産婦人科医で、瑞子は住み込み先の産婦人科医と産院の両方を見ていたのである。同じ学校で学ぶ岡田すみと長井せいが女医を目指す大望に同調し、内務省衛生局長の長与専斎を訪ねて医術開業試験を受験できるよう懇請した。しかし女性にはまだ、医術開業試験を受験する道は開かれていなかった。


医師を志す
 高橋瑞子には思い立ったらまっしぐら、という行動力があった。産婆の仕事で学費を稼いでは医学を勉強する日々を繰り返し、やがて西洋医学者高橋正純の大阪病院に住込み書生となって内科、外科、産婦人科の実地研修を始めた。しかし学資不足のため、暫くは前橋の津久井磯子の所に戻って産婆業に努めた。
 明治17年に荻野吟子が医術開業試験の前期試験に合格したという新聞記事をみた。岡田すみも同じ試験を、不合格ながら受験していた。高橋瑞子は早速上京して、私立医学校済生学舎に長谷川泰校長を訪ね、入学を願い出た。津久井磯子は瑞子に学費を支援したというから、彼女も大きな人物である。
 済生学舎は男子は無試験で入学できたが、女子の入学は認めていなかった。瑞子は医術開業試験に女子が受験できるのに、勉強する学校が無いのは理屈に合わないではないかと学校の前で3日間粘り続け、ついに長谷川泰校長も他の教授たちの了解を得て入学を許可した。長谷川泰は佐倉順天堂で佐藤尚中に学び、大学東校(後の東京大学医学部)の教授を務めた人物である。
 入学すると早速猛勉強が始まる。男子学生のイジメや嫌がらせ、悪戯などに構うことなく勉強して、明治18年に前期試験に合格した。女子で3番目の合格者であった。
 後期試験のための実地研修は順天堂病院に頼むことにしたが、院長佐藤進は面会に応じてくれなかった。ここでも女性の研修はお断りであった。しかし、高橋瑞子の猛勉強ぶりは評判になっていて、近所に住む山口順一なる男が順天堂の佐藤院長に紹介してくれた。実は山口は佐藤進院長の親戚であった。事情を聞いた佐藤進は授業料免除の特別研修生として受け入れ、佐藤志保子夫人は衣類など物心両面で面倒を見てくれた。
 明治18年に荻野吟子が医師免許を取得した。2年遅れて明治20年に高橋瑞子も医術開業試験に合格し、女医三号の免許が交付された。


医師開業、そしてドイツ留学
 こうして高橋瑞子はいよいよ、日本橋で産科・婦人科医院を開業した。女医が評判となり患者が押し掛けた。内科・外科も診療して男性患者も多く来院した。
 しかし医院は繁盛したが、瑞子は素直に医師としての力不足を感じていた。男性医師に伍すためには更に勉強する必要がある。高橋瑞子はここで、国内の医科大学を目指すのではなくドイツ留学を思い立った。思い立つと直ぐ行動する瑞子は、明治23年に横浜からドイツへ向かった。連絡を受けたドイツ駐在大使館では高橋瑞子の下宿先を手配し、ベルリン大学医学部産婦人科への入学を支援した。
 しかしベルリン大学もまた、女性の入学は認めていなかった。持前の粘り強さで折衝して、入学はかなわなかったものの特別の研修生待遇で講義や臨床実験に参加できるようになった。
 こうして1年間をベルリン大学で学んだが、慣れない土地で体調を崩し、明治24年帰国した。帰国後は元の日本橋で開業医として働き、ドイツ帰りの女医として益々繁盛したという。
 しかし、高橋瑞子は60歳で女医を廃業した。「自分も病気がちになった。病人が病人を診察してもしょうがない。歳をとれば誤診も多くなる」と語っている。


高橋瑞子のその後
 瑞子は病院で常時4、5人の書生を教育していたという。男勝りで囲碁をやり酒も飲み煙草が大好きな高橋瑞子の所には、かつての瑞子のような女性ではなく男性の書生が多かった。
 瑞子の姉は荻野忍と結婚し、一族には医者が多いという。姉の息子(養子)荻野久作は東大医学部を卒業し、受胎調節の荻野学説で有名である。
 高橋瑞子は友人吉岡弥生に、自分が死んだら身体は研究用に提供すると申し出た。昭和2年、高橋瑞子は76歳で亡くなった。遺体は東京女子医大で解剖され、骨はガラスケースに入れて保存されているそうだ。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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