2013/01
女医の道を拓いた荻野吟子君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ 3]

荻野吟子像(熊谷市荻野吟子記念公園)




















* 東京女子師範学校
 東京女子師範学校は男子の師範学校と共に御茶ノ水の、今の東京医科歯科大学の場所にあった。その後、東京女子高等師範学校となり、昭和7年に大塚に移転し、戦後新制大学となるときには当初の地名をとってお茶の水女子大学と改称した。御茶ノ水の聖橋の袂に「近代教育発祥の地」の碑が建っている。
 ゴールデンウイークの一日、熊谷の荻野吟子記念館を訪ねた。熊谷は日本最高気温40.9℃を記録した暑い街、この日も利根川の土手歩きは汗ばむ陽気であった。この利根川沿いに荻野吟子史跡公園がある。熊谷駅から利根川の土手までバスで約30分、そこから堤防を約800m歩く辺鄙なところだが、見学者が意外と多いのに驚いた。
 荻野家は埼玉県妻沼郡俵瀬の名主である。生家跡に熊谷市が長屋門を復元して作った記念館には荻野吟子の経歴や業績、縁の品々を展示し、記念公園には荻野吟子の胸像、生誕の地碑、顕彰碑が並んでいる。


医者を目指す
 荻野吟子は嘉永4年(1851)、ペリー来航の2年前に生まれた。妻沼は日本三大聖天の一つ、妻沼聖天の門前町として栄えた所で、江戸の儒学者寺門静軒が1860年に私塾両宜塾を開設した。この塾は松本万年に引き継がれる。漢方医でもある松本万年は荻野家に出入りして診療の傍ら漢学を講じ、吟子は僅か10歳で大人にまじって聴講したという。松本万年は吟子の優れた才能に注目し、娘の荻江とともに生涯にわたって吟子の支援者となる。
 18歳で上川上村の名主稲村貫一郎と結婚したが、夫から痳病をうつされて2年で離婚してしまう。松本万年の紹介で順天堂病院に入院して院長の治療を受けるが、医師も助手も男性ばかりで屈辱感を味わう。これを契機として、医師になって女性患者の屈辱を軽減しようと誓った。しかし当時、女性が医学を学ぶ学校は無かった。 
 

女子教育の壁
 先ず、東京に出て国学者井上頼圀の塾で学んだ。
 明治8年に東京女子師範学校*が設立され、松本荻江は師範学校の教授になった。荻江の勧めで吟子は一期生として入学し、基礎的な学問を学んだ。本来は教師になる為の学校であるが、吟子は医学の勉強が目的である。同期入学者は74名、卒業時には15人に減るという難関を、吟子は首席で卒業した。
 当時、医師の免許を取得するには3つの方法があった。第1は官立・府県立医学校を卒業すること、第2は外国の医学校・大学医学部を卒業すること、第3は医術開業試験に合格することである。しかし官立・府県立の医学校は男子学校であり、医術開業試験を受けるための女性が学ぶ学校がない。
 医術開業試験を目指す若者たちは神田の好寿院医学校で学んだが、ここは男子学校である。荻野吟子の希望を知った女子師範校長永井久一郎は、陸軍軍医総監の石黒忠悳を通じて好寿院校長高階経徳に依頼した。吟子は入学を許されたが、“女子の入学は許可しない。男子として扱う”との条件付きであったという。男子生徒からの苛めや妨害は酷かったが耐え抜いて、3年で全過程を終えて、明治15年に卒業した。荻野吟子31歳であった。
 年に2回ある医術開業試験に受験申込をするが、またもや前例がないとして却下された。東京府で2度却下され出身地の埼玉県で申請するが同じく却下、内務省に請願したがこれも却下された。そこでまた、石黒忠悳を通じて内務省衛生局長の長与専斎に依頼してようやく、明治17年に女子の受験が許可されて、前期試験に女子4人が受験した。前期試験は物理・化学・生理学・解剖学で、荻野吟子一人合格した。
 翌年の後期試験は内科・外科・産科・婦人科・眼科・細菌学などで、これも無事合格し、明治18年(1885)に日本で初の女性医師が誕生した。
 

女医開業
 医師免許を取得した吟子は湯島の自宅に産婦人科医院を開業した。女性医師免許第1号は評判となり、吟子と同じように病院に行くのを躊躇していた女性患者たちが来院した。忽ち病院は手狭になり、上野下谷の大きな家を借りて、看護婦やお手伝いも雇い、更には女医志望の学生を常時2〜3人預かって教育もした。 
 当時、本郷教会には有名な海老名弾正牧師がいた。海老名は新島襄の同志社神学校を卒業し、新島の出身地の安中教会牧師を務めた。吟子は女子師範学校時代の友人古市静子に誘われて本郷教会で海老名の話を聞きくうちに、キリスト教思想に共鳴して明治19年に洗礼を受けた。
 荻野吟子はキリスト教婦人矯風会が進める平和・禁酒活動に参加し、持論の廃娼を追加して風俗部長となる。さらにキリスト教徒たちが発起人となって明治19年に設立した明治女学校の講師となって、生理学・衛生学を講義し、校医も務めた。ここは女性たちに影響力のあった学校と云われ、津田梅子や島崎藤村、北村透谷などもこの学校で教えていた。


波瀾万丈の晩年
 荻野医院に同志社で学んだ志方之善青年が現れた。キリスト教を語り、吟子の医療活動や社会貢献活動に共鳴し、吟子に愛の告白をした。明治23年、吟子40才、志方26才であった。海老名弾正、松本荻江、親類縁者など吟子を知る全ての人達が反対する中で、2人は結婚した。
 志方は北海道の原野を切り開いてキリスト教の理想郷を作る夢を抱き、同志と共に瀬棚の奥地に入植した。瀬棚は江差より北の日本海側の、当時はニシン漁などで生計を立てる漁村であったようだが、現在でも交通の不便なところである。そのまた奥に入った原野を切り拓いて、神の丘を建設するという。
 明治29年(1896)に吟子も北海道へ渡った。志方は同志社に再入学して神学を学び、北海道に戻って浦河教会の牧師になるなど、吟子とは別居の生活が続いた。吟子は瀬棚町や札幌で医院を開業したが、志方が明治38年に42歳で亡くなったため、東京に戻った。
 荻野吟子が志方と結婚をせずに東京で医療活動や社会貢献活動を続けたなら、更に大きく飛躍しただろうとの見方がある。荻野吟子の生涯は2度の結婚ともに波瀾に満ちたものであった。
 昭和42年、北海道百年を記念して瀬棚町に荻野吟子顕彰碑が建てられた。荻野吟子生誕150年の平成13年には荻野吟子小公園が整備された。これに刺激されて、吟子の出身地熊谷市も生家の地に荻野吟子史跡公園を整備し、平成18年に記念館がオープンした。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




On Line Journal LIFEVISION | ▲TOP | CLOSE |