2011/08
早稲田大学建学の父 フルベッキ君川 治


[日本の近代化と外国人 シリーズ 8]


 通称「フルベッキ写真」と呼ばれる維新の英傑が一堂に会した写真がある。中央にフルベッキが座り、土佐の坂本竜馬・後藤象二郎・中岡晋太郎、薩摩の西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀、長州の高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文、佐賀の大隈重信・副島種臣・江藤新平、更には岩倉具視(公家)、横井小楠(熊本)など錚々たる志士が46人勢ぞろいしている。幕府側では唯一人勝海舟が加わっている。この写真については何時・何処で撮ったものか、真贋詮索がされているが、それはさておき、フルベッキの交際範囲・影響範囲の広さを示すものの一つとして見れば面白い写真だ。
維新政府に多くの人脈
 フルベッキはオランダ生まれのアメリカ人宣教師として、日米通商修好条約が締結された翌年、1859年に来日した。長崎に来たが未だキリスト教は禁止されていたので、英語教師として活動を始める。誠実で慎み深く博学な人柄が評判となり、幕府が長崎に設立した英語塾済美館の教師を委嘱された。海外との交流が多くなるにつれ、幕府はオランダ通詞に英語を習わせ、さらに幕臣にも英語教育を始めていた。長崎の警備を担当する佐賀藩は早くから海外に目を向けており、大隈重信らがこの済美館で英語を学んだ。
 佐賀藩は藩校弘道館とは別に蘭学寮を設けて洋学振興を図っていた。弘道館と蘭学寮で教育を受けた大隈重信は、藩主鍋島直正の許可を得て長崎に佐賀藩英学塾「致遠館」を設立し、フルベッキを校長に招いた。フルベッキは維新までの間、幕府の済美館と佐賀藩の致遠館の2つの学校で英語、フランス語などの語学教育と数学、物理、化学などの自然科学、更には歴史・地理・文学など幅広い授業を展開した。
 致遠館で教育を受けたのは大隈重信、副島種臣をはじめ、小出千之助(万延遣米使節随員)、石丸安世(工部省・造幣局)、馬渡俊邁(造幣局)、相良知安(東大医学部)、山口尚芳(岩倉使節団副団長・外交官)などで、フルベッキは維新後活躍した多くの人材を育成した。加賀藩の高峰譲吉などもその一人である。
 明治維新後、薩長土肥中心の政府に多くの人脈があるフルベッキは東京の開成学校教授、大学南校教頭に招かれた。更には文部省顧問、政府法律顧問としても活躍するが、キリスト教解禁となると大学南校教授を辞任し、次第に宣教師の仕事に傾斜していく。
 1887年に明治学院大学が創設されると神学部教授となり、1898年に68歳で亡くなるまで終世日本で過ごした。青山墓地に埋葬されていると云う。
 フルベッキの日本での業績は教育者として多くの人材を育成し、西洋啓蒙思想を我が国に吹き込み、政治家や官僚にも影響を与え続けたことと云えよう。

オランダ生まれのフルベッキ
 フルベッキは1830年にオランダで生まれた。父も母もプロテスタントで、親族には聖職者も多く、ドイツとオランダに住んでいた。フルベッキは8人兄弟の6番目に生まれ、教会の初級学校、上級学校で学び、長じてユトレヒト理工科学校で土木技術を学んだ。イギリスの産業革命が進み、大陸ではフランスがエコール・ポリテクニク、ドイツではベルリン工科大学が体系的な技術教育を始め、ユトレヒト理工科学校はパリのエコール・ポリテクニクをモデルとして創設したと云われている。オランダでは土木技術者がエリート官僚であった。
 当時、アメリカは産業革命と西部開拓で多くの労働力を必要としており、オランダから移民する人が多かった。フルベッキの2人の妹もアメリカに渡っていた。妹の主人はニューヨークで牧師をしており、この夫妻の招きでフルベッキはアメリカ移住を決意した。
 フルベッキは1852年にアメリカに渡り、造船技術者や建築・土木技術者として働いた。その後、福音伝道者に転身を決めてオーバーン神学校に入学、1859年に卒業すると同時に宣教師として日本にやってきた。
 オランダにいた頃のフルベッキ家では、オランダ語の他、父方のドイツ語、母方のフランス語と3カ国語が母国語として使われ、加えて英語の勉強をしていた。聖書の勉強のためにヘブライ語・ラテン語・ギリシャ語を習い、日本に来て世界で一番難しい日本語を勉強し、8カ国語をマスターした。
 技術者フルベッキは、ピアノ・オルガン・ヴァイオリン・ギターなども楽しむ音楽愛好家でもあった。

早稲田大学建学の父
 2010年11月の東京文化財ウイークに早稲田大学のシンボル大隈講堂が公開され、講堂内部や時計塔を見学することができた。大隈重信が唱えていた「人生125年説」に因んで、大隈講堂時計塔の高さは125尺(約38m)、大隈記念講堂はロマネスク様式にゴシック調を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品と云われている。
 2007年、早稲田大学創立125周年の年に大隈記念講堂は重要文化財に指定された。記念行事として多くの講演会などが開催され、大隈記念講堂は今でも文化の発信基地である。
 大隈重信は長崎の佐賀藩校致遠館でフルベッキに英語を習った。教材は聖書、アメリカ合衆国独立宣言などであった。「アメリカ独立宣言を起草したジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには青年を教育することが必要としてヴァージニア大学を創設した。ジェファーソンと同じ考えで私は早稲田大学を創設した」と大隈重信が述べている。早稲田大学百周年史の歴史記述で、「フルベッキなくして大隈なし、大隈なくして早稲田大学なし」としてフルベッキを建学の父と称えている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)


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