2010/02
工学の父 山尾庸三君川 治



 長州ファイブが注目され、2006年5月に山口大学に記念碑が建てられた。長州ファイブとは、幕末の1863年に国禁を犯してイギリスに密航した長州藩士、井上馨、山尾庸三、井上勝、伊藤博文、遠藤謹助の5人だ。英国では、日本から留学したこの若き志士たちが、帰国後の明治維新政府の要職を担い、日本の発展の基礎作りに大活躍したことを称え、1993年に留学先のロンドン大学ユニバシティ・カレッジの中庭に記念碑を建設している。
 ノーベル賞を貰った後に文化勲章を授与される例の如く、海外での評価が先であるのは寂しいが、山尾庸三や工部大学校教頭のヘンリー・ダイアーなど、もっと正当に評価されることを望みたい。  


幕末の密航者たち
 幕末の長州藩は薩摩藩や水戸藩と同様に尊王攘夷の一翼を担って活躍した。その一方でヨーロッパの進んだ文化や軍事技術を学ぶべしとの開国論を唱える一派もあった。しかし吉田松陰が下田からの密航に失敗して萩に幽閉され、松下村塾を開いて尊皇攘夷を唱えていて、欧州への密航計画は理解を得るのが難しかった。
 そのような中で井上馨は強く密航を望み、山尾庸三、井上勝の3人の密航計画を、幹部の周布政之助が支援して藩の黙認するところとなった。横浜から密航する直前に伊藤博文、遠藤謹助が加わり、英国商館の手引きにより上海経由でロンドンに向かった。渡航費用は横浜の貿易商より調達し、藩には「生ける器械」を買ったと思って勘弁してほしいと手紙を出した。維新政府での5人の活躍と英国からの技術導入を考えれば安い買い物であったと言えよう。
 5人の若者はロンドン大学の化学教授ウイリアムソンの家に寄宿してロンドン大学で学んだ。ウイリアムソン教授は後に英国王立協会会長になる優れた学者であるが、日本から留学した5人の若者たちを親身に世話をしてくれた。英国をつぶさに見た井上馨と伊藤博文は、攘夷の無謀さを説得するために半年足らずで帰国し、政治の舞台で活躍する。
 他方、遠藤謹助は3年間、山尾庸三、井上勝は5年間英国に留まり、共に技術を学び、帰国後は英国で学んだ技術を活かして夫々の分野で活躍した。彼らは総理大臣伊藤博文や外務大臣・大蔵大臣井上馨のような目立った存在ではないが、山尾庸三は「工学の父」、井上勝は「鉄道の父」、と呼ばれている。
 外国に密航を企てたのは長州だけでなく、1865年、薩摩藩からも15名の若者がイギリスに密航した。しかし薩摩藩の留学生は長州藩と異なり、藩が長崎のグラバーに依頼して組織的に実行したものであり、藩の幹部と通訳の4人が付き添い、留学生15名の多くは藩校で学ぶ生徒たちから選ばれている。佐賀藩からは石丸安世と馬渡俊邁が、同じくグラバーの手引きでイギリスへ密航している。


山尾庸三と工部大学校
 2006年に映画「長州ファイブ」が製作された。国禁を犯してまで英国に密航して海外知識を直に得ようとする若者たちの物語であるが、主役は山尾庸三である。山尾庸三は工部省で殖産興業を担当し、工部大学校を設立して我が国の近代化で活躍する多くの技術者を育成した。しかし大きな業績を残したにもかかわらず、何故か一般にはあまり知られていない。ここでは「長州ファイブ」の中で山尾庸三にスポットライトを当ててみる。
 2006年9月に萩博物館で「長州ファイブ展」が開催され、山口県立図書館でも長州五傑に関連した図書を展示した。
 この展示会を見に行くのにあわせて、山尾庸三の生家のある山口市秋穂(旧小郡)を訪ねた。山尾家は庸三が東京に出て政府高官として活躍したため、弟の山尾市太郎が家を継ぎ、現在は曾孫の山尾真理子氏が継いでいる。新幹線新山口駅(旧小郡駅)まで真理子氏が車で迎えに来てくださり、瀬戸内海沿いの生家を案内してくれた。この付近は毎年台風の被害が出るような地域であるが、生家は今も立派に保存され使用されている。生家の隣接する敷地に次世代の若者を教育する「山尾国際文化会館」の建設計画が進められている。 
 山尾庸三は小郡から瀬戸内海よりの海岸の片田舎、秋穂で山尾忠次郎の長男として生まれた。庸三は寺子屋で学ぶ利発な少年であり、萩藩士繁沢氏に見込まれて萩城下で勉学と剣術の修行をした。やがて藩士仲間に加わって江戸に出て、木戸孝允の腹心の藩士として活躍する。当時、長州藩は神奈川の警備を任されていたので、開明派の韮山代官江川坦庵の砲兵塾で近代的な兵学を学んだ。さらに同郷秋穂の出身で緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた村田蔵六(大村益次郎)から海外の知識を修得した。
 密航した山尾庸三はロンドン大学で学びながら、イギリスの造船・鉱山・鉄道など多くの分野を実地検分して歩き、イギリス海軍の軍事力の基盤が優れた技術によることを知った。学費の工面にも苦労した山尾庸三は産業革命発祥の地グラスゴーに移り、ネピア造船所で働きながら夜は地元のアンダーソンズ・カレッジで学んだ。この夜学校はグラスゴー大学のアンダーソン教授が拓いた学校である。働きながら現場の工業技術を身につけ、夜学で基礎的な学問を学んで、明治維新の1868年に井上勝と共に帰国した。
 英国で5年間、学問と技術を身につけて帰国した庸三は、維新政府の工部省で伊藤博文と共に工業技術の発展に活動を開始する。
 山尾は「国を発展させるには工業を興さねばならない、工業化のためには人材を確保しなければならない、人材を得るには学校を設立せねばならない」とし、工部省内に工部大学校を設立した。教頭に人選されたイギリス人ヘンリー・ダイアーは奇しくもグラスゴー出身で、山尾と同じく働きながら夜学のアンダーソンズ・カレッジに通い、グラスゴー大学を卒業したエンジニアであった。
 工部大学校は基礎・教養教育、専門教育、実地教育をそれぞれ2年とする6年制であり、土木学・電信学・機械学・造家学・化学・冶金学・鉱山学の7学科で、後に造船学と紡績学か追加された。各部門の教師もイギリスから招聘し、電信学のエアトン、造家学のコンドル、化学のダイバースなど素晴らしい教授たちであった。工部大学校は明治20年に東京大学に併合され工科大学となるが、工部大学校の14年間に211名の卒業生を送り出している。優秀な卒業生の多くは官費でイギリスへ留学し、帰国後は母校の教授や工部省、逓信省、農商務省の技術者として活躍している。
 建築科卒業の辰野金吾はロンドン留学後、母校教授となって学生を指導し、日本銀行や東京駅の設計など建築家としても多くの実績を残している。
 化学科卒業の高峰譲吉はグラスゴーに留学後、農商務省の技師、特許局次長を務め、肥料会社を設立して技師長を兼務するが、その後米国に渡って研究者として活躍した。消化剤タカジアスターゼの発明、止血剤アドレナリンの発明で有名だが、大学以外の研究機関として理化学研究所の設立に貢献している。
 電信科卒業の志田林三郎はグラスゴー大学留学後、母校教授と工部省技師を兼務し、電話の普及に活躍した。同じく電信科卒業の藤岡市助と中野初子は母校教授となるが、藤岡市助は東京電力と東芝の創始者である。
 この他にも灯台学の権威石橋絢彦、金属工学の小花冬吉、造船工学の三好晋六郎、紡績技術の発展に尽くした服部俊一、下瀬火薬の発明者下瀬雅允、琵琶湖疏水の建設者田辺朔朗、60Hz交流発電の岩垂邦彦など多くの技術者が我が国の工業技術発展に貢献している。
 山尾庸三は幕府がオランダに依頼して建設した長崎製鉄所、フランスに依頼した横須賀製鉄所を整備して造船所とし、工部省所管の鉱山、鉄道、電信の整備に力を注いだ。明治13年に工部卿(現在でいえば大臣)となった山尾庸三の力点は、英国留学の経験をもとにして、機械力の活用による産業振興と人材の育成であった。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)


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