2010/01
算聖 関孝和君川 治



 群馬県藤岡市が、関孝和のルーツであると主張している。
 関孝和は内山家の出身で、祖父や父の代は藤岡在住であった。藤岡市民ホールへ行くと玄関前の広場に関孝和の立派な胸像があり、算聖之碑がある。内山家の菩提寺である光徳寺は市民ホールから歩いて20分ほどの所にあり、「算聖関孝和先生の墓」もある。上毛かるたに「和算の大家 関孝和」を載せたり、全国珠算大会を主催したり、清酒「算聖 関孝和」を作ったりと、藤岡市ではPRを続けている。
 和算の大家関孝和が亡くなって2008年が300回忌の年で、色々なところで記念展や特別展が開かれた。
 江戸時代「天下一割算指南」を自称した毛利重能が「割算書」を出版し、吉田光由、高原吉種、今村知商を育てた。高原吉種の弟子が今回の主役関孝和である。関孝和は和算の歴史の中に大きな事跡を残しているが、同時に多くの優れた弟子を育てている。関流和算家は建部賢弘、山路主住、藤田貞資と続いていく。
 関孝和の出生、出身地については専門家の研究でもハッキリと分っていない。年代としては寛永14年(1637)、16年、または19年の説がある。亡くなったのは宝永5年12月(1708)である。
 2008年1月から新宿歴史博物館で特別展「関孝和と和算の世界」が開催された。新宿区牛込弁天町の淨輪寺には、関孝和の墓がある。関孝和の出身は内山家で、関家の養子となるが、関家も内山家もこの付近に住んでいた。両家とも甲州武田の遺臣と言われ、武田が徳川に滅ぼされて以後徳川に臣従し、甲府の宰相徳川綱重、綱豊に仕えた。和算の出来る関孝和は勘定吟味役として検地等を担当した。綱豊が5代将軍綱吉の後継となり西の丸入りすると、西の丸御納戸組頭となる。将来将軍職を継ぐ家宣の財産管理をつかさどる管理職役人に相当するそうだ。しかし、家宣が6代将軍となるのは宝永6年(1709)であり、関は前年に亡くなっている。
 展示会には和算書の原本、写本が多く展示されていた。西洋数学を学んだ我々が見て奇異に感ずるのは数学書が縦書きであり、漢字記述であることだ。これでよく計算ができるものかと感心する。展示会で記念出版された「関孝和の人と業績」によりその業績を拾ってみる。

 1)点竄術
 中国から伝わった天元術という代数式は算木を使用して表現したが、漢字表記で筆算を可能にした。(傍書法とも呼ばれている)
 2)方程式の解法
 近似解法でニュートン法と同じ方法の考案。
 3)行列式の発見
 4)円理(円周率)の算出
 近似分数として355/113としている。さらに円に内接する多角形の周長を計算し、217角形から小数点以下11桁まで計算した。3.14159265359微弱としている。現在は3.141592653589…であるから素晴らしい正確さである。

 この他にもベルヌイ数の発見や球の体積計算法、方陣や円陣などの記載があるが、筆者が理解できないので省くことした。
 東京理科大学近代科学資料館でも8月から11月まで、記念展示「関孝和と和算の世界」が開催され、8月には関孝和三百年祭記念数学史国際会議が同大学で開催された。記念展示の副題は「世界に先駆けて代数・行列式・ベルヌイ数を発明した関孝和」である。和算展示は新宿歴史博物館よりコンパクトだが、近代科学資料館には普段から計算機の歴史コーナーがあり、中国やエジプトなどのソロバンや初歩的な計算道具から、タイガー式機械計算機や電卓、電子計算機までの歴史展示がある。東京理科大学の前身は明治14年に開校した東京物理講習所である。明治16年に東京物理学校となり、物理と数学を主として教える専門の学校であった。数学科は開校以来122年の歴史を誇っている。
 関孝和が西洋数学と隔離されながらニュートン、ライプニッツやベルヌーイなどと同じ時期に同じ数学上の発見をしていたことは驚くべきことだが、関流和算が後継者により更に発展されたにも関わらず、明治維新で西洋数学の導入とともに廃止されてしまったのは何故であろうか。
 和算の「問題」は神社の算額などに今でも多く残っている。丸や三角などの図形問題が多くあり、西洋数学を使用しても簡単には解けない難しい設問が沢山ある。しかし、これらの例題は実用数学から懸離れて遊技化してしまい、和算発達の本来の目的であった「実用」の方向性を失っていた。
 これに対し西洋の数学は科学技術や産業とともに発達しており、実用数学として展開されている。幕末、長崎海軍伝習所では航海術の測量や砲術のために数学は必須科目であった。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)


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