2010/09
パリ・ロンドン放浪記木下親郎



ペンギンの「モダン・クラシック版」表紙
1989年の改定版(2001年リプリント)
「パリ・ロンドン放浪記」ジョージ・オーウェル

 ジョージ・オーウェル(1903-1950)は鋭い洞察力をもった英国を代表する作家である。この書は彼の第一作で,岩波文庫を読んだ時の驚きをいまだに覚えている。本欄で紹介するに際して,原作に挑戦したが骨の折れる読書になった。原作“Down and Out in Paris and London”は1933年に出版され,3,000部ほど売れ,評論家から高い評価を受けた。しかし、爆発的な売れ行きとなったのは1940年にペンギン文庫が55,000部の廉価版を出してからである。
 “Down and out”は落ちぶれ果てたことを意味する。オーウェルは子供の時から,小説家を志望しイートン校に学んだが,卒業時の成績が良くなくてイートン奨学金をもらえず,オックスホードやケンブリッジへの進学をあきらめた。一時パリに行ったが,スラム街にある落ちこぼれと南京虫の集まる宿に住み,ホテル・ロッティ(現在も一流のホテルとして健在)の皿洗いの職を得た。本の前半を占めるパリ放浪記はこの時の体験を記している。一流ホテルのきらびやかな食堂の世界と,扉一枚で仕切られた厨房のある全く異なる世界を見事に描いている。
 後半のロンドン放浪記は完全に落ちぶれた放浪者(tramp)を描いていた,ルポルタージュ(記録文学)である。パリ,ロンドン共にオーウェルはそれぞれの個性を持った放浪者を描いている。当時の英国は社会福祉を謳う国であったが,実際には放浪者を増加させ,彼らを食い物にする貧困ビジネスを生み出したことを具体的に描いている。パリの浮浪者の方が自由を持っていた。良き市民と放浪者の違いはお金を持たないことだけであると述べ,「仕事」や「貧困」を定義している。現在のホームレスや貧困ビジネスの抱える問題点を浮浪者の視点から分析した作品である。
 初出版のさいに出版元の要求で,原稿の卑語やそれらを使った部分を書きかえている。前半にあたるパリの部分では,これらの表現をフランス語にしているので,原作を読むにはフランス語の辞書が必要だった。小野田健訳の岩波文庫では全てが日本語になっているので心配はいらない。オーウェルは,辞書の俗語や話し言葉を使うことも多く,英語の辞書も欠かせなかった。岩波文庫版で「現在のロンドンで,どんな名詞にもつけられる流行の形容詞は,…である」と伏せ字になっているところがある。1933年の初版では伏字であったが,1989年版のペンギン文庫版では‘fucking’になっている。米国のテレビドラマや映画では普通に使われている言葉で,1980年の研究社英和大辞典では「とても,すごく」という説明もある。岩波文庫版は初版に因っているので伏字のままだ。
 かつて本欄で紹介したベンベヌート・チェッリーニがイタリア気質を示す例として使われている。チェッリーニの名前を見て,オーウェルへの親近感が増した。また,道路に絵を描いて施しを受ける職人的浮浪者(本格派大道絵師)が,「ジャップ」(小野田訳)は良いお客だと言う。日本が現れるのはこのJapだけだ。
 オーウェルはスペイン内戦に参加して戦っている。その時の記録である「カタロニア讃歌」(Homage to Catalonia)は記録文学の最高峰ともいわれる。「パリ・ロンドン放浪記」も「カタロニア讃歌」も岩波文庫は品切れ・絶版になっている。人間の貧困と戦争との関わりを描いた本であり,図書館で借りて読んでほしい。


木下親郎
電機会社で先端技術製品のもの造りを担当した技術者。現在はその体験を人造りに生かすべく奮闘中


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