自分はこれまでどう生きてきたのか。
その延長にどんな生き方が待っているのか。
ライフビジョン学会では現代人の生き方、働き方、悩みや希望について考える学習会の報告を連載しています。
わが人生をいかに生きるべきか 報告T
モノローグ・
OnLineJournalライフビジョン10月号
わが人生をいかに生きるべきか 報告U
「パンとバターと…次にすること」
OnLineJournalライフビジョン11月号
わが人生をいかに生きるべきか 報告V
「デモクラシーと人生設計」
OnLineJournalライフビジョン12月号
わが人生をいかに生きるべきか 報告W
「生き方から考える歴史」
OnLineJournalライフビジョン2月号
わが人生をいかに生きるべきか 報告X
「職場の民主主義はいかにして停止したか」 OnLineJournalライフビジョン3月号
わが人生をいかに生きるべきか 報告Y
「仕事と人生の再建を考えよう」
OnLineJournalライフビジョン4月号
わが人生をいかに生きるべきか 報告Y−2
「帝国ホテル労働組合の職場活動報告」
OnLineJournalライフビジョン4月号
帝国ホテル労働組合の70年の歴史区分
第一世代は結成初期の20年間、
第二世代は1960年代後半からの30年間、
第三世代は1990年代後半からの20年間
現在の運動に大きな影響を与えているのは第二世代の職場活動の躍進です。
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ライフビジョン学会公開学習会
わが人生をいかに生きるべきか 報告Y
[日時]2017年03月11日(土)13:30〜17:00
[会場] 国立オリンピック記念青少年総合センター/東京渋谷
帝国ホテル労働組合中央執行委員長
岡本賢治
未来を創るために運動史を編む 歴史的に職場活動を辿って現在に至る運動の流れを紹介し、現状の活動の報告をしたい。
昨年、『帝国ホテルに働くということ 帝国ホテル労働組合七〇年史』(奥井禮喜著)を刊行した。
帝国ホテル労働組合は1946年結成した。70年代にはストライキをドンパチやった。その総括を含めた運動史(以下年史)は、きちっとした「30年史」を始めとして「40年史」があり、50年史の時は電話帳みたいなものが残された。「60年史」でちょっと薄くなり、今回の70年を迎えた。
私以外の執行部は10年若返っている。私が見聞きしたことと前の歴史をジョイントして残しておかないと、これ以降、まとまったものを作るのは厳しくなるだろう。50年史のあとバブルがはじけたり景気も悪くなり、すったもんだがあった。このあたりもきちっと通読できるものにして残さなければならないという問題意識もあった。ライフビジョンの奥井禮喜氏に「70年史」の執筆を依頼することとし、議案書やビラなど過去の資料を引き渡した。
ところで、組合員は「働く」ことをどう考えているのか。以前から、スタッズ・ターケル『仕事』の本で、いろいろな職業人がどんな気持ちで働いているのかを聞きだす「インタビュー」を知っていた。70年史に、帝国ホテルに働く100人の組合員インタビューを組み込むことにした。
1人1時間、性別、年齢比など組合員の比率に合うように割り振りして、誰でも良いと職場から募った。100人はそれぞれ、指定された時間に組合事務所にやってきた。
役員は誰も立ち会わないので、何が話されているのかは分からない。組合員と日々の話はしているものの、どんなことを考えて仕事をしているのか、分かっているわけではなかった。インタビュー結果を読んでみるとそれぞれ、人生を語っている。へぇ、そうだろうな、から始まった。
「今」はどのように出来上がったのか、「過去」に基づいて「未来」を作ろう。70年史のまとめを経て組合は今、「これから」を作る運動に取り掛かっている。
眠れる豚が怒れる獅子に 結成から20年は戦後の苦労はあっただろうが、私の先輩たちも直接関わった人たちがもういない。帝国ホテルのロゴは百獣の王ライオンが舵輪を回して、海の向こうの客人を迎えるという意味があるそうだが、組合はこれを、「眠れる獅子ならぬ少しおとなしい野豚」と呼んでいたとか。組合活動の最初の20年はそんな感じだったと聞いていた。
1960年代後半から世間の組合活動が盛り上がる。時代に少し遅れる形で帝国ホテルの組合活動も盛り上がった。第二世代の30年間は、大きな活動のピークだった。第三世代は1990年代後半からの20年間、バブルが弾けて苦しい面もありながら、現代に繋がる。
なかでも現在の運動に大きな影響を与えているのは、第二世代の職場活動の躍進である。
帝国ホテル労働組合の69年春闘は、周りのホテル組合から「眠れる豚が怒れる獅子になった」といわれるほど、豹変した年であった。
会社は1970年大阪万博に向けて、建物の建て替えをしていた。ジャンボジェット就航もあり、大量観光客に合わせてそれまでのホテルのシンボルでもある大谷石造り「ライト館」を取り壊し、今の日比谷にある本館の建て替え時期であった。
ホテルの建て替えは実は、経営者にも労働者にも大変なことである。まず職場がなくなる、働く場所がなくなる、そこから利益を得る、営業の場がなくなる。会社には大きな仕事、従業員にも全国に出向に出るなど大きな試練である。会社からは「こんな事情の中」として組合は「2年間は賃上げなし」の協定書を結ばされた。
半分は仕方ないと思いながら、世間は5桁賃上げをしている時代のこと。ただでさえ賃金が低いホテル業としては、2年間協定を破棄してでも賃上げをしようと、豚が“眠り”から覚めた。
しかし68年春闘は会社からの妨害などもありスト権投票が40%ぐらいと、見事に失敗する。
69決起は同じ失敗はできないと、執行部はかなり本気になった。組合員1人ひとりに、自分たちはどういう状況にあるのか、何をしなければならないのかとオルグした。
当時、闘争資金が340万円溜まっていたというそのほとんど使い果たして、仕事明けで帰宅途上の組合員を会社の出口でとっ捕まえて、タクシーに放り込んで、学習会場に送り込んだり、土日の休みに招集をかけたり、ほぼ全員に今の状況や、新しく建物を建ててこれからどういう未来を描くかの学習をしたようだ。それが組合執行部と個々の組合員との関係を構築し、9割を超えるスト権を確立した。
69春闘が始まった。春闘は賃上げがメインながら、組合はすでに全組合員の声を聞いているので、職場要求も平行して出した。
一番の柱は「いい仕事がしたい」 ホテル業は365日、24時間稼働なので長時間労働になりやすい。
そこで要求の一番の柱は「労働時間を減らそう」、もう一つは「職場の定員制」。この職場には何人のスタッフが必要かを働く側が査定し、取り決めをしたいと要求した。
その背景には恒常的な欠員があった。会社がホテルの取り壊しをする状態なので職場が安定しないこともあるのだが、別の要因もあった。
ホテル・サービス業の特色のひとつとして、人がいなければいないなり、いればいるなり、何とかなる、というのがある。
料理の注文をなかなか取りに来なくても、注文したものがなかなか出てこなくても、お客さんに待っていてもらえばなんとか繕うことができるし、料理を出してしまえばなんとなく形は整ってしまう。ただそのお客さんが、もういやだと来なくなることはあるかもしれないが、「商品」としてはなんとなく形が整ってしまうところが、メーカーのものづくりとの違いかもしれない。
会社としては、要員は少ないに越したことはないのだが、現場ではいいものを出したい、客にきちんと応えたい。客を待たせたり、満足いく商品に仕上げられないなどのことがストレスになっていた。恒常的な長時間労働のこともあり、職場要求として「人数を用意してほしい」というのが出てくる。
それ以外にも制服やワイシャツ、靴下や靴など貸与してほしい、などが並ぶ。60年代の終わりはまだ、モノが豊かで安く買える時代ではなかった。
職場労使の職場交渉で苦情処理を 当時は職場の苦情処理が労働協約で規定されていた。会社は、職場の問題は苦情処理としてやろう。賃上げは団体交渉でやろう。苦情処理は各職場で受け付けようと提案した。
「ということであるならば」と、各職場は盛り上がった。われわれの通称「職場交渉」、苦情処理委員会をやろう。
残された当時の手書き報告書などを読むと、調理場やレストランが定例的に職場交渉をやっていた。当時の料理長が村上信夫という、NHKなどで晩年まで活躍していた有名な人で、彼が調理課長を兼務していたとき、交渉の窓口だったようだ。
職場役員が村上料理長に交渉するのだが、まだ交渉に慣れていないし、申し入れ書を出すにも文章がなかなか整わない、具体性が無いなどの反省が残っている。
普段は職場で一緒に働いている仲であっても、いざ交渉となると緊迫した。調理場は親分子分関係で、いまだに親方と呼ぶ人も若干いる。子分が親分に文句を言うのはハードルが高かった。
だが、おかしいことは親分にモノを言っても良い、という気分ができたのが69春闘からだった。徒弟制度の中でも、労働組合のことが職場に馴染みができ始めた。転機であった。
定員制、職場要員協定の締結 69春闘では、この職場はこの人数でやろうという「定員制」の要求をした。会社は結びたくない。
欠員状態の職場にはさすがに、村上料理長の英断が何回かあったが、その人数を「定員」にするのではなく、問題が起きるまで放置される。欠員を補充するとの感覚が無い、足りないところに人を入れてとの要求は春闘のときにもそのあとにもあったが、定員制を決めようというのは無かった。
労働組合は73年、職場の中で1時間のストライキを構えて定員制、職場要員協定を結ぶことができた。
――各職場の要員は、調理における必要人員である。その認めた人員が退職した場合、原則として、補充は退職届け提出後1ヶ月にする――。オモテと裏の関係にある調理場とレストランでまず、要員協定が結ばれた。
他の職場も続いた。協定は職場単位で動くので、先行する職場、盛り上がらない職場、また会社の経営に近いところは圧力が強い。そこで職場活動の再構築運動を、全体として設定してやろうとなった。こうして万博の75年には、全ての職場で要員協定を結ぶことができた。
ここに万博の客が押し寄せて、それまで300人ぐらいでやっている会社で、タワー館を新設したので、200室ぐらいの職場が千室に増えた。新入社員が千人くるような状態で、職場は大混乱した。職場が広がり、人もお客さんも増えて、どこに何があるかも分からない人手が増えてもどうにもならない。要員協定は結んでいるが、何が協定なのか分からない状況だった。
しかし万博が終わると冷え込みが始まり、今度はやたら人が目立つ。会社は76年、200人の減員を言い出した。
職場では仕事の見直し、自然減、定員数の見直しを進め、200人の減員は100人として協定を結び直した。しかしまだ売り上げとのバランスが悪い。
会社は客が揃わないとして大衆化路線、空室を埋めるために安売り、しかし単価も減るので翌年にまた200人の減員、組合はそれを100人に押し戻す。その都度、仕事の中身と人数を見直して、69決起から10年かけた79年、最終的な、新要員協定、定員協定を結ぶことができた。
ポイントは、仕事の親分子分関係の見直し、職場交渉が定着したこと。団体でなく職場交渉で、相手は部長、課長と交渉することが根付いたことであった。
70年代に労働協約が無協定になったが、実際は職場協定書で補完していた。80年代のタワー館の建替えも、この経験が生きていく。
花開く世話役活動 この時期、組合員との関係では、世話役活動が花開く。サラ金対策、多重債務問題である。
77年大会で、サラ金対策委員会、正式名称は労金労信販推進委員会が立ち上がる。ホテル業は相場の賃上げをがんばって上げ率は相場並だったが、水準はそこまでなかった。また、もともと急な出費とかへのストックがあまりなかったことから、社員の利用者も少なくなかった。
当時、帝国ホテルのある新橋には大手から中小サラ金が入る「サラ金ビル」がどんどんできていた。そこに組合員が出入りしていた。金利も高くすぐ返せなくなる。するとサラ金から職場に電話がかかってくる。電話口ですみませんといい続ける当事者を見て、職場から執行部に通告が入る。組合のサラ金対策委員長が強面で面談して、全部で何百万とかの数字を聞きだすと、労金と相談をしながら、組合員を連れて一軒一軒サラ金に行き、減額交渉をする。向こうも暴利を貪っているので、交渉に応じる。こうして金額が縮まったとき労金に借り換えして、一緒に返済に行き、証文を取り返してきた。もぐらたたきのように毎日のように、一社一社返して歩いて組合員との信頼を結ぶ世話役活動をやっている。年史にも、おかげさまで生活を立て直したという話も出ている。そうでなければ会社を辞めて、下手をすれば夜逃げもあったかもしれない。世話役活動の70年代であった。
時短は職場の見直しそのもの 80年代は、週休2日制が世間で当たり前になっていた。当時の委員長がヨーロッパ視察後、必要だとして会社と時間短縮の話を始めた。
時短は、その分人が増えれば問題は無いのだが、会社は休みは増やしても人は増やさないという。ホテルは365日24時間動いているから仕事に穴を空けられない。それでどう生産性を上げるのか。時短は職場、仕事の見直しそのものであった。仕事のやり方を変えるしかない。
それまでの「人を減らされる」職場交渉とは違い、自分たちの休日を増やす時短要求のために、職場の見直しを一所懸命やったのが80年代。結果的に契約社員制度が導入されたが、90年に完全週休2日を達成した。ホテル業界で完全週休2日なのは当社だけで、旅館など、いまだに、何とか3桁をという状況である。
ここまではバチバチと、会社とぶつかってやっていた。
80年代になると、「いいじゃない、突っ張らなくても」というのが大会スローガンに出る。ドンパチもやってきたが、少し平和な方向に行こうじゃないか。自分たちのことを認めろ、と怒鳴るのではなく、資本家、経営者が労使対等を自然に認める状況を作りたい。
ちょうど1890年のホテル開業から100年のタイミングに、新しい未来を労使で責任を持って作っていこうと「労使共同宣言」を結んだ。
しかしその後、バブル崩壊。利益と人手(がかかりすぎだと)の問題、それまで社員でやっていた仕事を外の業者さんにアウトソーシング、特に他社は外部の会社に任せることが当たり前になっていた客室の清掃業務を、会社はうちもやりたいと押し切った。
アウトソーシングの波が来て、再び職場交渉の出る幕が来てがんがんやる。90年の労使共同宣言のせいかは分からないが、職場交渉は先に結論ありき、条件の話ばかりになっていた。職場は自分たちの職場を守りたいと普通に言う。職場に近いところではなぜ条件闘争に入らなければいけないのかの感があった。それなりに事情があったのだと思うが、もやもやする結論の職場交渉が続いていた。
当時、職場ごとの協定書を全部出すと500協定書があったといわれていた。それを整理したい、包括的な労働協約を組合も結びたい、少し民主的な労使関係になろうよとの思いもあった。
会社は、要員協定を一つに取りまとめることを嫌がった。がんばって強い職場はきちんと守れるのだが、弱い職場はずるずるになっていた。それをまとめると全部が元気になってしまい、会社は、労働協約でもあった職場の要員協定を全社で一本化することを嫌がった。結果的にそれは各職場でやるのだからいいんじゃない、として済まされた。強い調理場、レストランはがんばるが、営業や事務部門など弱い職場はある程度、ずるずるになっていた。
職場役員体制の再構築 組合内部の話では、職場の役員体制のスリム化がある。当時は組合員6人に1人の職場役員がいた。その上に20人に1人の常任委員、それを束ねる議長副議長の議長団。大会の議長要員が職場を束ねる。職場ことに6人に1人から始まる人員体制が96年、一番下の職場委員と議長団を止めよう、常任委員だけにしようとの提案があった。職場は相当抵抗するのだがそうなってしまった。
実は議長団が職場交渉の要だった。「華の議長団」は「実力専従」と呼ぶ闇専を取り、午前中は仕事、午後から職場を抜けて、調理場グループ、レストラングループなどが組合事務所に集まって、作戦会議を繰り広げていた。
その議長団がなくなって、執行部は途方にくれた。職場とのパイプがあるようで無いようで、議長団は管理職直前の人々で、会社にも職場に睨みが利いていた。
そうはいっても職場に近いところの活動はやらないわけにはいかない。そこで残された常任委員の学習活動をもう一度しっかりやろう、となった。その頃奥井のとことろに相談に来た。執行部はその頃、職場のことより行事だったり地域対応をしたり、常任委員の研修もそれぞれ年に3回ずつやっていたが、おざなりな感じもあった。そこにワークショップを取り入れたり、常任委員への知識を含めた動機付け研修を始めた。
職場交渉では、苦情処理は常任委員と執行部でやることになっていたのだが、議長団がいなくなり、下の方を交渉員にせざるを得ない。研修の中で模擬交渉も取り組んだ。毎年地道に研修をやる中で、執行部も常任委員も、職場交渉に慣れてきた。
常任委員は輪番が多いので、職場によっては新入社員を送り込むところがある。もう少し下からちゃんとしなければと、入社1年目、新入社員研修会をやっていた。それまでお茶呑みながらの同期会的だったものを、組合員が組合を使う観点で考えようと「使えるぞ、労働組合」というパンフ、教科書的なものも作るなど、1年目の新入社員から、常任委員になる人の研修会まで、力を入れてやっている。
契約社員、エリア社員の正社員化を 会社のほうでは大阪に帝国ホテルを作る話が出ていた。1996年開業。これがホテルの大きなイベントだった。
東京は自前の建物が建っているが大阪は賃貸ビル、家賃がかかるので正社員だけでは無理だと、契約社員制度を導入するエリア社員制度の話が出ていた。
当時業界では当たり前の話だったが、組合としては正社員との労働条件格差を考え、年収で1割の格差、正社員の9割の賃金にしようとした。1年毎の契約社員、30歳で賃金頭打ちとなる。新卒を採るのだが、会社としては3年働ければよいという制度だった。組合は、全員がユニオンショップならば良いとして、制度をスタートした。
大阪も最初の開業景気のあとは塩梅が悪くなり、徐々に、東京から転勤で来ていた社員を引き抜いて現地で雇うようになり、正社員より契約社員比率が増えていくこともあった。全員が組合員ではあるが、勤続年数が3−5年で辞めて行ってしまうので、職場の中に安定した勢力として定着しない。しかし3−5年で変わり、正社員の9割ということもあり、人件費がうまくコントロールされる。そのうちに会社は東京にも入れようという話になり、大阪で認めて東京で認めないのは理屈が立たないとか言われて、なし崩し的に導入されてしまった。
当社は古いホテルなので、人が綿々と繋がっている。先輩の背中で育つので、理屈で人を育てるマニュアルは馬鹿にする体質がある。新入社員はたまたま就いた先輩ごとに、仕事の仕方を使い分けなければならないほどだった。正社員のときはそうして繋がっている人脈だが、エリア社員、契約社員などでは途中がいなくなり、仕事の繋がりが切れてしまう。特に中堅層が突然いなくなると、新しい人が入ったときに問題だ。
組合はそのことに問題意識があり、エリア社員を何とかしようとするが、会社は欠員があればとのらりくらりしている。職場では辞められると困るので、制度が無いのにがんばれば社員にしてやるなどとリップサービスする管理職も出てきたりして、これではいけない。組合としても、エリア社員の正社員登用を制度化しなければと取り組みをしている。
また女性が多いので、有期雇用まで法的には広がっていない育児休業を自己都合でよいから入れろとか、同じユニオンショップなのに労働協約の適用外ではおかしい。労働協約の適用6−8年もかかる。それを労働協約の適用にしたり、さまざまな制度で社員に近づける要求をしたり、少しずつエリア社員の条件を改善してきたが、根っこが、3−5年で辞めてよいという話だから、仕事が繋がらないという話が埋まらない。
会社はだんだん、さらに比率を増やしたい。大阪のエリア社員4割を半分にしたい。東京も1割を3割に増やして人件費を下げたいと言って来た。馬鹿言うんじゃない、職場がどういう状況になっているのが分かっているのか。
そのことをきっかけに、ラインを決めて何年か前にダメだった全社の要員協定を決めようとなった。この職場は社員が何人、エリア社員、パートの比率はどれだけと、要員協定を結んだ。
これは昔あった社員だけの要員協定とは意味が違って、結果的に「戦力要員協定」が結ばれている。正社員はこれぐらいの仕事、エリア社員は副主任(若手)業務まで、パートは補助的用務など、要員協定にプラス、結果的に戦力バランスまで協定ができたことは大きかった。
そうはいってもこのままではいけない。エリア社員は全部正社員にしたいが、制度導入時の経緯があり、会社要求までは立てられない。一方職場からも、あんな奴もこんな奴も、なんていやな話が出てくる。低い条件の人を正社員にするのは、自分たちの条件も下がるのではないかと推測もする。
しかしエリア社員が多い職場は仕事が繋がらなくて穴が開くから、必死だ。実際、調理場の制度切り替えでドンと入った世代がいて、そこがあと何年でごっそり辞めざるを得ない、辞めるか、残ってがんばるか決めなければいけない時があった。全員残れるようにと会社交渉をして、労働条件は変わらないが期間の定めの無い雇用に切り替えることを勝ち取るのが、2010年だ。
実際には2011年4月からの導入合意ができ、4月から全員、期間の定めの無い雇用に切り替えようと最後の追い込み方針を固めているところに震災が起こり、春闘が吹っ飛びそうになる。会社もこれだけは飛ばしてはダメだと、お客がぜんぜん来ないなかの4月1日導入。震災も大変だったが、われわれにとっても何とか、エリア社員制度が安定する制度になったタイミングだった。
会社もいろいろ不安があったと思うが、人がいなくなることが一番大変なので、合意をしていただいた。
われわれの人件費とは何なのだろう 震災は、ホテルも客さんが全然いなくなって、大変な状況になった。当たり前のことが当たり前ではないと気付いた。そのあと、春闘で賃上げ、一時金をべらぼうに下げて何とかしのごう、5年計画で元に戻そうと、春闘の方針を決めた。5年たったら戻る根拠は何も無いのだが。
組合員になんと言ったら、戻るというイメージを植え付けられるか。会社は損益計算書で、売り上げ、原価、費用、利益。原価は食べ物飲み物の仕入れ。人件費は費用。会社は売り上げを建てる、利益を上げるのが命題だ。原価は仕様が無い、費用はコントロールできるとの思いが強い。
リーマンショックから震災までの間、われわれの人件費とは何だろうと議論した。少なくともホテル業においては費用ではない。原価ではないのか。原価は食べ物飲み物の仕入れであるが、お客さんは生野菜をそのまま食べているわけではない。料理をする人がいて商品ができあがる、飲み物をサービスする人がいて商品ができる。人件費は少なくとも原価である。原価をかけなければ良い商品にはならない。費用から原価へ、というのと同時に、付加価値を作り出すのはわれわれだ。
どの業界でも、付加価値を作り出すのは人、われわれは特に付加価値を作る存在なのだ。われわれががんばれば売り上げが伸びる、利益も残る、はずだ。組合員の意識を震災を機に、春闘で戻していく経過で、自分たちは何なのか、自分たちは費用ではない、売り上げと利益を生み出す源泉だと、この5年間ぐらい、春闘で言い続けた。
最初は何を言っているのか、という感じだったが、5年も言い続けると職場に浸透してくるもので、そう言ってもらえると、なんだか職場は元気になる。会社の方も言われ続けていると、そうですね、皆さんが利益の源泉ですからね、とか何とか、言うようになる。ならばまず、原価に金をかけなくて、どうすれば売り上げが立つのか。利益は残るのだ。今も春闘で、連日のように交渉で言っている。
どちらにしても職場ががんばらないと、人が少なくて、サービスはいくらでも手が抜ける、がんばればいくらでもがんばれる。それが必ずしも利益、売り上げに繋がるわけではないこともあるのだが。
労使要員協定はお客様への品質保証だ 同時に最近は、要員協定はお客様に対する品質保証だ。サービス業のわれわれには、メーカーのように品質保証の考え方が明確にはない。品質管理の部門も無い。商品は現場で日々流れて行くので、品質の管理はやりにくい。せめて何人掛けていますというのが、会社にとってお客様に対する保障である。
最近は要員協定を自分たちの仕事の負荷もあるのだが、欠員を放置すれば商品価値が落ちるという話をしている。要員協定を守るということは、人手不足のところもあり、会社は「人が集まらない」と逃げようとするところがある。誰に言い訳しているのか、と交渉で言うようにしている。お客さんを裏切っていることで、良いのか、と要員協定で話をしている。
業界は「インバウンド」、外国からお客様がいらしている反面、結婚式は少なくなっていく。宴会と宿泊は両輪なのだが、宴会は厳しい状況にある。折角外国から客がいっぱい来ているので、追い風だと思っている。
いま、組合の理念を作ろうしている。会社にもあるが、世代が変わったとき、歴史を踏まえるだけでなく、自分たちはどういう運動をしていきたいのか、理念を作ろうと、3−4年前から掲げて、何とか机上で文章は作ってみたものの、それを大会にかけて、通ったというだけで意味があるのか。
理念作りは1人ひとりが何をしたいかが無いとダメだろう。
年史の中でも、自分たちの10年後をどうするかを考える、とある。では今、全組合員が10年後をどうしたいかを語ろう、という運動を始めた。まずは執行部、次は常任委員。どんな自分、どんなホテルでありたいか、好き勝手に語ってもらい、個人的でも夢物語でも良い、語ってもらう。ある程度たまったらHPにアップする。組合員全員がしゃべったときを見計らって、その実現のために組合はどうあるか、を作る。
答えは見当たらないのだが、業種の特性もあるが、1人ひとり、職場を大事にしてきた組合なので、それは当然あるだろう。
昨今ではお客様を意識すること、社会の、というところにどれほど意識をした活動であるか分からないが、1人ひとりが労働組合に関与していくかをベースにして、組合を考えていきたい。
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