生活的道楽 奥井禮喜(ライフビジョン代表) 《最新の記事から5件》
こういう文章が、いい加減な世論誘導をしかねない。 本日(6/30)の日経社説。見出しは「イロハのイがわかっていない」。防衛大臣・稲田女史の選挙応援演説に関するものだ。 本文でも、司法試験に合格したのでしょう、イロハのイがわかっていないと重ねて叩く。 そして、今夏の内閣改造で、(首相が)よもや続投させることはあるまいと書く。いかにも手厳しいのであるが、大事なことをお忘れではないか! 稲田女史を逸材として引き立ててきたところの、首相たる方の暴走ぶりは稲田女史どころではありませんよ。 今夏の内閣改造を前提することは、張本人の問題発言・問題行動を大目に見て、これで幕引きしなさいと脚本を書いている。 これもまた、典型的「忖度」なのでありますねえ。嫌らしい。
権力というものは――争点Xについて、Aが命じなかったからBがしないであろうことを、AがBにさせうる能力である。 もっと単純化すれば、他者に他者がしたくないことをさせる力である。 自分が自分の能力をよく知っていれば、いささかなりとでも権力的立場に就いた人は、自分が権力に振り回されて、他者に対して権力を振り回したりしないようにしよう、と自重自戒するのである。 現実には、自分の能力を知らず、選挙で当選すると舞い上がって、権力の餌食になる連中が多い。 権力奪取しても、それを正しく使うのは容易ではない。権力はおぞましい。
駅前なので、しばしば都議会議員候補者と応援団の演説を聞く機会がある。 ------というか、聞きたくなくても聞こえる。聞きたくなくてもというと、いかにも有権者として不埒に聞こえるだろうが、要は、演説らしいものが少ない。 どうしようもない事例を挙げると、はじめからお仕舞まで、名前の連呼が圧倒している。合間に誰かと一緒に都政を改革とか、もっと女性が輝くようにとか、ポスターのコピーと変わらないのである。 たまたま演説らしいと見れば新聞を読んでいる。ただし、これは候補者ではなく応援団であった。 思うに、人々は通過なさるのだから、2分間でまとまった話をする。それを3本くらい用意しておいてくれると、窓から手を振ってあげたい。
自分の発言や行動について、反省が一切できない人物が、政界の頂点に立ち続けると、どんな国になるだろうか? おちゃらけを言うのではない。 スピノザ(1632〜1677)は言いました。 ――わたしは人間の諸行動を、笑わず、嘆かず、呪詛もせず、ただ理解することにひたすら努めた――
1946年9月30日、ニュルンベルク法廷で、第二次世界大戦におけるドイツの主要戦争犯罪人に対する判決が出された。裁判自体に関するさまざまな主張があるが、それは横へ置く。 わたしが強い刺激をうけたのは、首席検察官ロバート・ジャクソンの最終陳述である。いわく、 ――被告人たちは、何も見ておらず、何も聞いていない。彼らの主張を総合すると、でたらめなヒトラー政権の姿が浮かび上がる。 政府No.2の人物は、反ユダヤ主義の法律に書名しながら、ユダヤ人大虐殺に気づかなかったという。 No.3の人物は、ヒトラーの命令を読みもせず伝達しただけだという。 外相は外交問題に疎く、外交政策を知らなかった。―― これは、もちろん権力支配者の頂点に立っていた人々が、責任回避の弁明を重ねることに対して発せられた言葉である。 ところで、主権在民の国において国政に関して、「わたしは1国民に過ぎないから知りませんでした」ということは言えるが、厳しく考えれば、責任回避の弁明にしかならない――と、わたしは思う。 《以前の記事あり→》 ※感想をお寄せください‥‥ E-mail: office.com |