RO通信 No.796 2009/9/28  ライフビジョン 奥井禮喜 日本(人)の精神風土  明治維新(1868)以降、わが国は欧米の進んだ技術を導入して猛然「追いつき追い越せ」路線を走ってきた。敗戦後の廃墟と混乱から再建し、1980年前後にはJapan as No.1といわれるようになった。  おりから日米摩擦が激しく、電車内釣り広告に中曽根首相が登場し、国産品ならぬ「輸入品」購入を呼びかけるという、まさに近代以来の椿事であり、「追いつき」は見事達成されたのである。  問題はその後であった。追いつきはしたものの、先頭走者としての舵取りは容易ではない。なにしろ見本がない。ひたすら経済成長至上主義で走った結果は、1980年代後半からバブル経済への突入であった。  今もしばしば「明治の人は偉かった」論が幅をきかせている。しかし、概観すれば、近代技術導入には成功したが、たとえば(広い意味の)政治意識は経済ほどに成長したとは思いにくい。  いわば明治以降、わが国の近代化路線は技術の著しい進歩に対して、政治意識が遅々として進み得なかった。近代化の「二律背反」とでもいうべきであろう。  戦後、民主主義になった。民主主義は「自由・自治・独立」意識が基盤である。なかんずく、わが国の民主主義において、「自由」なる言葉が十分な発達を遂げたのであろうか。  パール・バックは「物事を合理的に考える知的勤勉な人々は、自分に発言権を与えないような政府を長期にわたって耐え忍ぶことはできない。----安きを偸むな」(1945.10.2)と日本人に有益な忠言を述べた。  もちろん自民党政治が強権圧政だったというのではない。しかし、ざっと60年間、政権交代なく、自民党が政権を掌握し続けた歴史を回顧するとき、「安きを偸んだ」という思いが涌かないであろうか。  石川達三は「日本人は教養もあり、日本的性格をもっていたが、人格をもたなかった。」(1945.10.1)本来教養とは懐疑精神とセットである。「民主主義は形式のみ成立して内容空疎なるものができそうである」とも予想した。  戦後生まれがすでに70%を超す。民主主義のもとに生まれ、民主主義によって育ってきた、と誰もが確信しているだろうが、果たしてそうであろうか。制度と意識の成長は必然的関係ではない。  合衆国陸軍省報告書(1946.1.3)によれば「日本政府は占領2か月に民主主義的改革を進める動きなし。人々は衣食住のみに関心がある。しかし、生活物資が十分あるとしても、人々の政治参与が自然に発生するものではない。」と書かれていた。これは、もちろん遠い敗戦直後の報告書ではあるけれど、衣食足りてますます政治的無関心を強めてきた経緯を回顧すれば、あながち笑い飛ばして忘れ去られる言葉ではないようである。  今般、政権交代が民意であった。それは戦後民主主義の進化とみられるし、間違いなく新しい扉を開いたのである。  ただし、自民党が「やってくれない」から拒否し、民主党が「やってくるだろう」から一票投じただけならば、「自由・自治・独立」を本懐とする民主主義思想からすれば、相変わらず「お任せ」主義に通ずるのである。  「民意を聞け」というが、アンケート民主主義では本来の民主主義ではない。かつて「上意下達・下情上通」といった。これは、お上に善政・仁政を期待するのみであって、王侯政治時代の思想である。  卑近な例だが、組合役員が「職場の声を聞いて会社に伝える」という。一見、公明正大に聞こえるが、会社をお上に置き換えてみると、民主主義以前の景色と重なって見えるのである。  民意を聞く意味は何か。あるがままの意識の低さを味方とするべきか。否、政治は「あるべき良識に期待する」べきであろう。あるべき良識というものは、各人の勉強に委ねられる。畢竟民主主義を推進する人は、自己の見識をもち、発信し、必要な変化を創造し、かつ受容するのである。  これを「自立人間」と定義したのは30年前であった。民主主義の原点はここにある。自立人間は外からの力によっては形成されない。われわれはまだ明治近代化「二律背反」と綱引きしているのではあるまいか。