RO通信 No.782 2009/6/22  ライフビジョン 奥井禮喜 余暇論−2  動物の活動は「くう・ねる・はたらく」の循環である。人間もまた「パンのために働かねばならぬ」。では、「人生の目的はパンか?」否、人生にはsomethingが必要。パンを食べて然る後に何をするか?  「生きる意味」とは畢竟「生きたいように、したいことをして暮らす」ことでありたい。「パンのための時間」=労働時間と「生きたいように、したいことをして暮らす」時間=自由時間とは別物である。  「生きる時間」=一定とすれば、「パンのための時間」=労働時間が少ないほどよろしい。理屈上「パンのための労働」=労働時間は生存の必要のみ。かくして、時間短縮とは「生きたいように、したいことをして暮らす」時間=自由時間増大を目的としているといえるだろう。  そこで問題が登場する。自由の拡大=生きる喜び!言葉はわかるが、自分が得心できるように考えねばならない。時間短縮のご本尊は哲学的命題でもありそうだ。  ところで、一般的な意味で時間を区分すると、「労働時間」「生理時間」「余暇時間」であるが、大事なことは「余暇時間≠自由時間」である。なぜなら余暇時間は、質的には、喜びにも苦痛にも変わりうるからだ。  余暇時間に「したいこと」が発見できなければ、退屈だろうし、茫洋とした気分になって、ひょっとすると不安に取りつかれてしまうかもしれない。逆に美味しい食事に快哉叫ぶとか、創造的な仕事に時間が過ぎるのを忘れることもある。やはり、自由時間を規定するのは、間違いなく自分である。  もし人生の意義が労働のみにあるのだとすれば、膨大な余暇時間をいかに過ごすべきであろうか?理論上、現役お勤め人の余暇時間は2800時間程度あり、定年後ともなれば5000時間を超えている。  下手をすると余暇時間の消化に悩むかもしれない。カラオケ・パチンコ・電気紙芝居ではつまらない。気晴らし・手慰みだけでは退屈凌ぎ、退屈が嫌さに長時間労働が選好されるのであろうか。  「現代人は好きか、嫌いか、の基準しかない。」(開高健 1930〜1989)だから、それにふさわしくキッチュな文化が氾濫する。開高さんが寂しく書き付けたのはすでに40年前であった。  デカルト(1596〜1650)の「われ思う、ゆえにわれ在り。」Cogitoergo sumはあまりに有名だが、自分は何を思うのか。何をしたいのか。「われ在り、われ思わず」と言いたくなるような次第で。これは、なかなかしんどい。  パスカル(1632〜1662)は「人間は考える葦である。」とした。左様、かくして、考えないのであれば、葦と同じである。  回顧すれば、厳しい労働の時代には余暇を希ったが、1980年代からこちら、余暇時代となったら、今度は余暇を持て余しているのではないか。  不況だから元気がないのではない。元気がないから不況なのである。そもそも人生は消費そのものである。生産と消費、仕事は生産、余暇は人生の消費である。生産(労働)が優先するか、消費(余暇)が優先するかというような問いかけは無意味である。人生(消費)の価値こそが問われねばならぬ。  内需(の不振)が単にお金を使う生活としてしか話題にならない事情では、とても寂しい。1980年代初頭、経済大国になったのに「豊かさ・ゆとりが感じられない」という言葉が流行った。  明治維新以来、「欧米に追いつけ追い越せ」という思考パターンで走り続け、110年かけて、それを達成したが、今度は「背中」が見えなくなって、精神的に虚無状態に嵌ってしまったのではなかったか。  「人間は目的的存在である」というのが、欧米的思想の核心であるが、わが大和民族は、いささかならず、それとは違うらしい。  夏目漱石(1867〜1916)は「現代日本の開花」1911において、開花は人間活力の発現の経路であるとし、「西洋の開花は内発的だが、わが国のは外発的である。」「それゆえ開花の影響をうける国民はどこか空虚でなければならぬ。そうでなければ上滑り・慢心になる。」だから「内発的に変化していくしかない。」と結んだ。卓見である。財政政策と金融政策だけに依存するのでなく、余暇の意義を考え直してみたいのである。