RO通信 No.773 2009/4/20  ライフビジョン 奥井禮喜 こんな時勢と職場の元気  人生において、働く時間は極めて長い。人生80年のざっと半分の期間を働く。前半の20年はお勉強期間である。その半分程度はまだ人生がどうのこうのと考えないだろう。  恥ずかしながら、自分の体験からすると、お勉強期間とて、みっしり集中した時期ではなかった。人生というごとき言葉を使うようになったのは、社会人になってからである。働く時期になってぽつぽつ成長したか。  なるほど、仕事をめぐっては、常に解決せねばならぬ課題がある。技術・技能を練磨せねばならぬ。ややこしい人間関係がある。競争もあれば協力もある。一括すれば「常に挑戦する状態」に置かれている。  かくして働くことは、単に、糊口を凌ぐためであると断ずるのでは間尺に合わぬ理屈である。そこで「働きがい」が登場する。昔、背中にヤリガイなる雲古をくっつけたアホな宣伝があったが、そんなものではない。  たぶん「働きがい」とは、仕事を通してなんらかの「手ごたえ」を感じられるのであろう。達成感を強調する向きがあるが、それは結果であり、直ぐに消える。本当の大事は「手ごたえ」であり、仕事の「過程」にこそありだ。  「働きがい」があれば「生きがい」がある、という考え方が涌いてくる。人間は、常に何かに熱中していないと退屈にとらわれる。神は人間に罰として苦役たる労働を与えたはずであったが、人間は労働よりも退屈のほうが辛いらしい。つまり仕事は、人間の玩具にもなりうるのである。  退屈を放置していると非元気状態にはまる。生きる意味などあるものか、と斜に構えたり、vandalism的行動に走るのも一興なしとはせぬが、前者はますます無気力化し、後者は長続きしない。  元気とは何か。思いつくのは個性の発揮、個性は100人100様だから、つまり各人の天才geniusの発揮という次第である。天才は各人が持っている。他者の評価はともかくも、天才は自分のものである。  仕事は畢竟他人に奉仕するのである。いやいや働いていても他人の役には立つ。ただし、面白くないから我慢代と交換するのである。この場合、元気は我慢代と交換される。  資本主義が剰余価値を必要とするように、元気も剰余元気を必要とする。それがなければ元気は後退する。加齢による肉体力の衰退は仕方ないが、生きるために元気(意識力)は日々培養せねばならない。  成果主義失敗の最大の本質は、利潤至上主義に走って、結果主義・過程無視の制度を作り、なおかつ、過程重視の人事管理を再構築しえなかった(する気もなかった)からである。わが国人事管理の最大の欠陥である。  これは、今も依然として継続中である。人事管理は相変わらず、経理部・購買部の下請けから立ち上がっていないのではなかろうか。  人事管理の要諦は、人の「元気培養・育成」に尽きる。「製品を作る前に人を作る」精神が忘れられている。かつて人事マンは「労働力を採用したのではなく、人の人生を預かったのだ」という誇りを持っていた。  たとえば、1960年代前半、人事のキーワードは「大きな顔をする部下を育てよ」であった。仕事は権限委譲の巧みさをもって発展するという基本がきちんと押さえられていた。  1970年代は「ほめて育てよ」と変わった。新人類の前の、ネオ新人類としての団塊世代の扱いに困惑しつつ、悪く言えば「ヨイショ」作戦に堕したのである。未熟者をほめてどうするのだ、という諫言は少数派だった。  1980年代になると、何を勘違いしたのか「ほう・れん・そう」が管理者の合言葉になった。アホ本を購入して管理者に配布した人事マンがごまんといた。「大きな顔----」→「ほめて----」→「ほう・れん・そう」の文脈は、明らかに思想的後退、人をどんどん幼児扱いしたのである。  一方では、管理社会の精緻巧妙を極め、箸の上げ下げまでマニュアル化するような体たらくで、人々の自由闊達さは失われ、画一主義・事大主義・事なかれ主義、もって面従腹背的組織文化におおいに貢献してしまった。  財政大盤振る舞いに景気回復期待するのはナンセンスだ。人々の「働きがい」とは何かを真剣真摯に考えようではないか。