RO通信 No.765 2009/2/23  ライフビジョン 奥井禮喜 教師たちの葛藤  教師たちの教育研究集会を傍聴した。教育現場最前線で働く教師たちが学校教育の在り方を研究する活動であり、今年で58回を数える。まさしく働く人による「働き方改革」の典型的な活動である。  世間では、昨年プリンスホテルが会場を突然断ったとか、右翼らしきのが妨害行為をするとかの話に関心が集まりやすいが、これほど大々的にかつ歴史的に「働き方改革」の取り組みが展開されている事例は他にはない。  分科会の1つ、「子どもの安全・安心と学習権確保――子どもの権利条約をどう生かすか」を傍聴して、いろいろ考えさせられた。  提起された問題。子どもの自己肯定感の極端な低下=「落ち込み」が、自己不信、自暴自棄、問題行動、校内暴力、学級崩壊問題につながるという分析である。論者によれば、問題は、子どもたちのIdentity crisisだという。  「三つ子の魂百までも」というが、これは俗諺の類であり、一般的には、三歳児にしてIdentity=自我が確立されるなんてことはない。もっと言えば、自我は各人の人生において、死ぬまで追求されるものである。  かつて、日本人は集団主義であり、欧米人のような「俺がおれが」というような個人主義ではないという論があった。しかし、このような論説は仮説の域を出ていないのであって、悪く言えば間に合わせの理屈である。ここには、一見妥当そうに見えるが、大きな間違いを犯している。すなわち、集団主義と個人主義を単純に対置することである。  人間は群れ=集団で生きる動物である。群れには文化がある。文化が崩壊すれば群れは解体する。その視点からすれば、東西問わず人間は集団主義である。ところで、群れの文化だけではなく、個体にはIdentity=自我がある。  個体は群れにおいて誕生するのだから、生まれたときからすでに群れの文化の影響をうけていることは疑いないが、それがすべてではない。群れの文化と、個体のIdentity=自我が摩擦・葛藤、さらには衝突を惹起することも少なくないのである。  集団で生きている以上、集団主義であるし、各人が個体である以上、個人主義である。集団主義と個人主義は並存している。たとえば、日頃目にすることだが、個人主義の権化のような米国人は、集団主義のはずの日本人よりはるかに集団的行動が著しい。  霊長類研究で著名な今西錦司氏は「日本人の自我はサルより弱い」と指摘された。私はこの言葉がいつも頭から離れない。つまり、かつての日本人集団主義論は、日本人各人の自我が弱いことを意味するのではないのか。  封建社会の残滓として、日本人は、家父長主義、事大主義、画一主義、そして事なかれ主義だという説が定着していた。なるほど、考えようによっては、自我が弱いとすれば、群れと個人間の摩擦・葛藤は発生しにくい。  1931年からの15年戦争は、後には無謀な戦争であり、大衆は一部の権力者に操られた「無辜の民」とされることが少なくないが、自我が弱いから群れの論理だけで暴走してしまったともいえる。  なぜなら個体のIdentity crisisというものは、個体がこだわるべき自我を確保しているがゆえに発生するはずである。こだわるべき自我がなければすべては唯々諾々と受容されるのであって、危機は発生しないはずである。  さて、子どもたちにIdentity crisisが発生しているとすれば、それは群れに対する異議申し立てでもある。また子供の自我は、大人の自我より弱いはずである。なぜならまだ成長不十分だからである。  われわれは、人間は「目的なくしては精神の重みを支えられない」ということを体験的に、あるいは無意識的に察知している。自己肯定感とは、漠然としているとしても、自分が目的的に生きているから維持できるはずである。  そもそも未熟である間、人間は自我未熟であり、目的意識未熟である。大人が子どもに与えられる最大の貢献は、彼らが自立できるように支援することである。大人たちは果たしてIdentity確立の自負があるのだろうか。  「官僚主義機構において先頭に立ちうるものは自己存在を放擲したものである」(カール・ヤスパース)というような状態であったら、大人にはIdentity crisisがないことになるが、それは子どもより上等なんだろうか。