RO通信 No.763 2009/2/9  ライフビジョン 奥井禮喜 2009春季生活闘争の課題  組合が誕生して100年と少々、敗戦までの組合活動は今日とは異なって自由な活動ができなかった。第一に、労働者には「働く権利」がなく、「働かせていただく」のであった。第二に、権力によって抑圧されたのである。  敗戦後は一転、基本的人権が基盤の国家になり、働く人が堂々と権利を主張できるようになった。1955年から春闘が始まり、賃金・労働条件闘争を中心として組合運動は大きく高揚した。ところが----  1970年代後半になると、賃金・労働条件が大幅に向上して、直接的課題が改善されたことと平行するように組合活動は退潮傾向に入る。ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるようになり、明らかに活動が弛緩した。  1980年代後半のバブル経済期、マナジリを決さずとも賃金・労働条件は向上した。組合員の組合無関心が取り沙汰されたが、賃金・労働条件至上主義の活動に埋没していたから効果的な新しい活動がほとんど見られなかった。  1990年代初めバブル経済が崩壊し、危機意識を強めた経営施策の追求に比べると、組合は十分な対応ができなかった。とりわけ雇用の安定を根元から揺さぶられたが、有効な対応策が打てなかった。  いわく経営はコスト至上主義を全面に打ち出す。雇用削減をやれば少なくとも担当部門は責任を取るのが矜持だったが、株が上がり、手柄顔をするような気風が形成された。まさに悪しき官僚主義が蔓延してきた。  なるほど資本主義は、資本増殖を第一義とする制度である。しかし、戦後の混乱期にあっても、品格ある人事部は非情な資本主義に対して「人間の顔」をした運用をせねばならないと臍を固めていたのである。  雇用関係の基盤は賃金労働である。労働者は労働力の売り手である。八百屋が野菜を売るときに、野菜の価格を客の言い値だけで売ることはない。自分の労働力は売り手において、決定したいのは当然である。  賃金は経営側にとってはコストである。働く人にとっては所得である。生活の糧であり、労働力の再生産が目的である。コストと所得の立場は対立するし、利潤と賃金は対立関係にある。コスト論だけが正しいのではない。  だから、経済状況がいかなるものであろうとも、労働者を束ねる組合が賃金改定要求をするのは当然の行為であって、自分たちの賃金要求を掲げておおいに力説するべきである。  わが国の労働者は昔から、賃率意識が低い。「賃率=総収入÷総労働時間」こそ大切である。ずるずる長時間労働になっている背景には、働く人自身において、賃率意識が低過ぎることにも大きな問題がある。  そもそも、「(賃金=生活の糧)÷労働時間」の関係からすれば、労働時間は短いほど上等である。プロフェッショナルの人であれば、賃金ダンピングに通ずるようなことがあってはならぬと考えるであろう。  生活の糧を獲得するための労働時間が短いほど、プロフェッショナルであることは当然である。残業は経営からすればペナルティを支払わねばならない。結局それは仕事のできない人ほど賃率が高くなることを意味している。  このように考えれば、長時間労働は働く人の生活時間圧迫問題だけではなく、むしろ経営側においてこそ、もっと真剣・深刻に対処すべきである。その過程において、職場のさまざまの問題があぶりだされるであろう。  たとえば、現在の不況において企業活動を確立するためには、「新商品開発・新販売ルート開発・生産体制改革」の三方向から攻めることが求められる。つまりは、組織を挙げて、知恵を絞ろうという次第になる。  不況がいちばん怖いのは、もちろん商品が売れないことは怖いが、いかなる情勢にあっても、確実な行動をしなければならない組織構成員の人々が、士気疎漏し、内向きになり、蛸壺に入ってしまうことである。  とりわけ雇用問題が働く人々の心を不安定にするのは目に見えている。憲法第27条において「勤労の権利と義務」が規定されているのは、雇用は拡大こそすれ削減されてはならないことを明記しているのである。  組合員はざっと1000万人おられる。全職場で、現下の情勢を話し合ったらいかがか。「数は力である」。世論を形成するのは1000万人の発言にかかっている。それが春季生活闘争の鍵である。