RO通信 No.760 2009/1/19  ライフビジョン 奥井禮喜 雇用問題と社会活力  今回の金融危機・不況は突然の問題というが、資本主義の体質でもある。少し前企業が史上最高の利潤を上げていたけれど、ごく一部を除けば働く人々の賃金は上がらず、中小企業などは余裕なき事業活動であった。  米国の旺盛な需要・消費活動は、かのJ.ソロスやソロモン兄弟社の幹部をして、異常であると発言させていた。BRICsの好調さは仮に先進国が息切れしても連動しないと、まことに好都合の景気予測が報道され続けていた。  目下の論調は、あたかも金融危機・不況が天変地異のごとくであるが、冷静に考えれば、まったくの人災でしかない。経済は社会的活動であるから、そのデメリットは社会全体で甘受せねばならないが、資本主義においては、富は社会のものではなく個人的であるから、圧倒的多数の人々は甘い蜜に預かるよりもデメリットのみを甘受させられやすい。これが大問題である。  富が社会的に大きく貢献しているのかどうか、現在のような場合には、それを各界指導者たるもの真剣真摯に考えていただかなくてはならない。そこで、雇用問題が最大課題として台頭する。雇用は基本的人権の根底をなすものであって、それが脅かされるのは民主主義の危機なのである。  雇用問題には二通りある。第一は商売に対して労働力が過剰な場合、第二は商売に対して労働力が不足している場合である。景気との関係では、前者は現在のような不況期の典型であり、後者は活況期に見られる。  雇用問題は労働力過剰状態ばかりでなく、労働力不足状態においても表れる現象である。環境・状況としての経済は動的だから、経済主体としては、常にその風波に心構えをして対応せねばならない。当然ながら。  ところで、中長期的に概観した場合、絶対的労働力不足ではないが、傾向としては労働力不足に傾斜中である。ほんの半年程度前までは、なかなか必要な人員が確保できないという声をしばしば聞いた。  忙しい、労働力不足で長時間労働が常識となっている。有給休暇は半分以上切り捨てている。あまつさえサービス労働まで常態化している、というのは、いわば労働力不足状態における雇用問題である。  たとえば、新製品開発などで鎬を削っている職場は労働力不足状態である。頭を捻って何かを生み出さねばならないし、従来とは異なった製作方法を求められるのだから、労働力は「質量」共に不足する。  このような職場においては、トップがただ叱咤激励するのではなく、メンバーと一緒に頭をフル回転して、目的を目指しているのであるから、忙しくて大変ではあるのだけれど、モラールはすこぶる高揚している。  つまり、仕事主体としての組織が健全に積極的に活動している状態とは、その職場全体の能力が100だとすれば、たとえば120くらいの課題に積極果敢に挑戦しているのである。これは経験則として理解できるだろう。  その逆が希望退職を募集したような場合である。仮に組織においてメンバーの能力がピラミッドを形成しているとして、希望退職で槍玉に上がるのは概して下層に位置すると見られる労働力である。  1990年代のバブル崩壊後においては、「役立たずは去れ」という組織文化が巻き起こり、とくに中高年世代が「肩叩き」されて、職場からどかんと去っていかれた。それでコスト面はとりあえず息をつくが、職場の生産性は容易に上がらない。なぜなら仕事全体量を確保しようとすれば、相対的に下の仕事が増えるから、組織全体の仕事「質」が引き下がるのである。  日本経団連と連合が共同宣言を発した。報道によれば、その趣旨は両者が政治に何とかせよという注文をつけたことになっている。しかし、本来は労使がそれぞれの立場でまず雇用対策を全開させねばならない。  その場合、不況だから売れないとあきらめるのではなく、不況でも売るという戦略が必要である。利潤が簡単に獲得できないと萎縮するのでなく、商品開発・新販路開拓・組織革新が必要だという理屈になる。  そのような構えにならぬのは、一言にすれば上層部が萎縮しているからである。前述のモラール高揚のパターンを考えてみてほしい。トカゲの尻尾切りで事足れりとするのでなく、皆で職場を守る姿勢を作らねばならない。それがなければ、ますます社会全体が萎縮して不況を深化させるだけになる。