RO通信 No.759 2009/1/12  ライフビジョン 奥井禮喜 派遣法問題の本質  派遣労働者は全体で384万人もおられる。その年間売上高6.5兆円。8時間換算の派遣料金は一般14032円・特定20754円、派遣労働者賃金は一般9534円・特定13044円である。派遣料金に対する派遣労働者賃金は一般67.9%・特定62.9%である。  派遣労働者を受け入れた会社としては、そこそこ支払っているつもりかもしれないが、派遣労働者からすれば、安い賃金で働き、簡単に雇用打ち切りされるのだから、とても心穏やかにはいられない。  とりわけ製造業派遣を生業としている会社が、派遣がない場合に、労働者の面倒をみれば上等だが、現実には、とくに今回のようないずこの企業も萎縮している時期、なんら手立てをするわけではない。  昔も違法だが、内緒で、工場内に外注工が入っていたことがある。形は外注工(労働者)を雇っている会社が仕事を請け負っているが、請負の実体はなく、要するに繁忙に応じて労働者を手配しているだけであって、外注工は外注工を受け入れている会社の直接指示により働いていた。  これが合法となったのが、今回問題になっている製造業派遣社員を規定した法律である。はっきり言えば、派遣は「ピンはね」システムとして機能する危険性が高いから反対してきたのである。  この期に及んでも、まだ派遣が雇用創出につながるという抗弁がある。本音は人件費抑制であり、雇用調整しやすい――というのが企業の最大メリットであることは明白である。事実、偽装請負が大企業で露見したではないか。  もちろん、384万人もいるのだから、「自由な働き方」を最優先している労働者もおられるだろう。しかし、それがさまざまのインチキ雇用を凌駕していると言えるものではない。  「自由な働き方」なる言葉は上等である。たとえば定年後、食べるために働かなくてもいい人が、「生活リズムのために働く」などと言う人がいる。これが実現するのであれば、大変素晴らしい。  働きたいときに、働きたいように働く――これは、働く人からすれば最高の希望である。しかし、恒産なき大衆においては、とてもじゃないが、こんな優雅な働き方を確保できるわけがない。辛い事情があっても、嫌な人間に取り囲まれていても、じっと我慢の子というのが、お勤め人的人生である。  そもそも、契約自由社会においては、雇用する側もされる側も対等なはずだから、雇いたいとき雇う(不要になれば解雇する)・働きたいとき働く(不要になれば辞める)という理屈が成り立つ。  しかし、労働者にとっては、「辞める自由」はあるが、それはほとんどの場合、食えなくなる自由と同義語である。だから、労働者は組合を作って労使対等を実現し、雇用を守っていかなければならないのである。  思うにわが民主主義の基盤は基本的人権であり、基本的人権は、雇用が守られずしては確立できないのである。  少し前、わが大企業はCSR(企業の社会的責任)論が花盛りであった。CSRの本願は何をおいても、企業が、雇用確保・低所得者層救済を常に尽力するにある。高失業は、都市衰退、社会不安の温床だからである。  そもそも、わが経営者においては雇用の縛りが厳しい、自由に社員の首が切れないという不満がかねてより強くある。1968年退任するまで12年間経団連会長の座にあった石坂泰三氏は「経営者が社員のクビを切れないなんて、こんなバカな法律はない。」と、労働法をぼろ糞に批判した。  中曽根内閣時代・土光臨調以来、財界は着々と労働法改悪の布石を打ってきた。それをなし崩ししてきた典型が派遣法であると、敢えて言いたい。  経営の都合だけ考えれば、自由放任が一番である。石坂氏は自他共に認める自由経済論者であった。今、ここまで明快に言ってのける財界人はいないだろうが、言わぬこととやらぬことは一致しない。  人間社会は優秀な人々ばかりで成り立つのではない。自然界とて弱肉強食ではない。まさに見えざる手によって、見事に、牙ある動物も牙なき動物も共存してきたのである。100年一度云々によって、適者生存論が台頭するようでは動物以下である。今こそ雇用を第一義に考えよう。