RO通信 No.745 2008/10/6  ライフビジョン 奥井禮喜 金融危機に一言  すでに2005年米国内産業の著しい空洞化が指摘されていた。米国ヘッジファンドが安い円を購入し米国債券運用し利ざや稼ぎをしており、J.ソロスをして1997年東アジア通貨危機再現を危惧する発言もあった。  2007年1月には、世界株式時価総額50兆ドルで、金融関係者はウハウハ気分であったろう。しかし、世界の極端な金余りが指摘され、同9月にはドル暴落が23年以内にあってもおかしくないという指摘がされていた。  まさしく市場経済原理主義が蔓延し、儲かればよろしいという風潮が世界中を覆っていた。あにはからんや、同8月には米国サブプライムローンの延滞率14%で焦げ付きとなっていた。同9月IMFがサブプライム損失試算を最大2000億ドル、2008年まで続くとした。損失額は時間を追って膨れ上がってきた。  米下院が金融安定化法案を否決9/30したので、大騒動になった。朝日・読売・日経社説は仲良く足並み揃えて、米国は責任もって、世界金融恐慌を防げという論調である。ごもっとものようでもあるが。  しかし、市場原理主義の尻馬に乗って数年間世界経済が3%を超す成長を果たしていたことに対して、さしたる警鐘も鳴らさず、世界がバブルになっていることに本気で危機感を表明せず、ずるずると金融バブルを認めてきたという認識からすれば、いささか脳天気の社説だと言わざるをえない。  せめて、大新聞なのだから、米国議会が金融システム――実は個別企業・個人なのである――の救済を国民生活不安が高まるとか、世界金融恐慌になるとかの恫喝によって、公的資金さっさと投入せよ論に与するのではなく、民意を否定できなかったことを評価したってバチは当らないだろう。  これらの社説を肯定するならば、バブルおおいに結構、ねずみ講もどきのサブプライムも儲かればいいのじゃないかという、まことに不埒な論法になってしまうのではあるまいか。  かつてわが国のバブル崩壊後、何が行われたか。国民生活を守るために公的資金投入は正しかったというが、現実に、目下の国民生活は格差が拡大して、あるいは個人の虎の子がおおいに減ってしまった。  すでに2005.1.30日銀が、わが国においては1993年からの10年間に家計利息154兆円が消えたと国会で報告していたではなかったか。  いわば、それでわが国の金融機関が、米国救済の資金を提供できるという次第であって、大新聞は、米国市民に比較して、日本市民のおとなしさ、人のよさを気の毒だと思わないのであろうか。  実物経済と離反した、金融経済を野放図にしてきたことをこそ、この際、きちんと指摘しなければならない。経済がおかしくなると、すぐに、国民生活云々を人質として、「あんたらのために公的資金を使うのじゃ」という論法であるが、圧倒的多数の市民は金融経済のお恵みをいただいてはいない。  少なくとも、米国市民が「ウォール街を救うのに血税を使うな」と、全国的に抗議行動を起こしているという、その民度の高さに敬服したくなるのではなかろうか。  大新聞も、拝金主義はよろしくないとの建前であったはずであるが、いかにも軟弱な社説である。拝金主義のぼろが出た。にもかかわらず、単純に危機感を煽って、尻拭いせよと煽るのは、いささか筋違いではなかろうか。  そもそも、サブプライムがすばらしい金融技術であると煽っていた連中はどこへ消えたか。わが国は金融技術が劣っている。国民の金融リテラシー不足である。皆で株をやりましょうと政府までもが喧伝した。  世界各国、いずこであっても、圧倒的多数の庶民はささやかに暮らしている。そこにきちんと視線を合わせていないから、このような馬鹿騒ぎをせにゃならぬ。まことに腹立たしい。  資本主義は資本増殖を絶対とする。資本・経営・労働の三位一体が効果的に機能しなければならない。ただし、この間実物経済を無視して、資本が跳梁跋扈したことが世界を金融危機に放り込んだことを看過できるものか。  政治は銭儲けの方便ではない。報道はきちんと監視するべきである。資本主義が暴走せぬように尽力せねばならない。