RO通信 No.726 2008/6/2  ライフビジョン 奥井禮喜 退職準備教育への期待  米国では「幼稚園を卒業したときから退職のための準備をすべし」という言葉があ る。なかなか含蓄のある言葉である。これは狭義に定年退職後の生活を無難にせよと いうのではない。人生設計する生き方を推奨するのである。  人間は生まれて、学校教育を受けて、社会人となり、働いて生活を作って定年を迎 える。退職後とは自由なのであって、自由人なのだから、彼の人生においてもっとも 成長した人間として現われなければならぬという謂である。  定年を迎え、自由を手にしてもたつくのは、果たして定年が原因だろうか。違うだ ろう。事実、現役真っ只中の諸君において、「ワーク・ライフ・バランス」などが、 ご本人たち以外!からありがたくも喧伝されている。  PPK(ぴんぴんころり)信仰がある。本当にそうなら、定年後ではなく、生れ落 ちたその日から、全力疾走して、心地よく彼方を目指して生きればよろしい。正しく はいかなる状態でも「Never give up」精神で生きるのだ。  退職準備教育を、金銭的な、あるいは健康に注意しましょうというような即物的、 狭隘なものにしてよいのだろうか。そもそも退職準備教育などやろうとしている企 業・組織はいずれも天下に名前の届いた大組織である。  その企業で働く個人がよほど放埓な生活をしない限り、退職後生活に困難をきたす ということはありえない。もし、そのような教育目的を掲げるのであれば、大きなお 節介に過ぎない。困った人を助ければよろしいのである。  退職準備教育の必要性はそんなものではない。定年後を展望した人生設計教育の場 であり機会である。集まった諸君が「いかに生きるべきか」を真剣真摯に話し合う時 間を演出せねばならない。  人は常に先輩の背中を見て生きている。人生の先輩たる高齢者が本当に自由にのび やかな生活をしておられるならば、後輩たちは、あの先輩のようになりたいと思って 暮らすだろうではないか。  ところが、その先輩たちたるや、さして魅力的ではないというのが一般的通念だろ う。人生の有終の美に近づきつつあるのに、後輩たちが瞠目するような高齢者が少な いのが問題なのだ。  退職後のことだけではない。かつて熟年という言葉が作られた。中高年という言葉 はよろしくないという。しかし、それは加齢上の通過時期を示すに過ぎない。幼児・ 児童・青年などのように表現するのと同じである。  つまり、その本旨は言葉がよろしくないのではなくて、中高年世代の中身がよろし くないのであるから、中身を変えぬまま、名前だけ変えたところで何も変わらない。 熟年と言って喜ぶ気がしれない。二重の差別である。  「後期高齢者」健康保険云々が騒動の種になったが、長寿と言い換えても同じであ る。先輩が苦労して繁栄を作ってくださった、と考えるような後輩は出色の若者であ る。はたまた、ボケを認知症と言い換えて何が変わるか。  退職準備教育の方針をきちんとせねばならぬ。今の世の中が素晴らしく、不満がな く、立派なのであれば、個人は、その世の中にひたすら同化すればよろしい。果たし て、唯々諾々同化すればよろしい世の中なんだろうか。  世の中に問題ありと考えるのであれば、にもかかわらず、その世の中で、自分だけ が人生設計して、落ちこぼれにならないようにすればよろしいのだろうか。そんなこ とはないだろう。常に問題意識を確保せねばならない。  よろしくない世の中をそのままにしておいて、他人のことなんて知ってはいない。 自分だけが失敗せぬように生きようというような人生設計をするのであれば、それ は、世の中をもっと悪くする以外の何事でもないからだ。  個人の人生が集まって社会を作るのである。個人の好ましい人生が好ましい社会を 作る。だから、人生設計とは、個人の人生を社会にひたすら適応させることではな い。人生設計とは闘う個人を組織化するのである。  かくして、退職準備教育と言おうが、人生設計と呼ぼうが、社会的視野を踏まえ て、大きく言えば社会改革を展望したものでなければならないのである。個人の元気 な人生が元気な社会を構築する基盤なのである。  とりわけ働く人の団体などにおいて、人生設計教育を主催するのだから、個人がこ の現実の社会に「実存」していると感得できるようなプログラムを開発実践しようで はないか。皆様の善戦健闘を期待してやまない。