RO通信 No.721 2008/4/28  ライフビジョン 奥井禮喜 労働時間の歴史  中世欧州ギルド時代においては、労働時間はだいたい8時間程度であったらしい。やがて産業革命・資本主義の発達によって、長時間労働が登場する。  エンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」(1845出版)を読むと、当時の酷薄な労働事情が見事なルポルタージュにされている。56歳で、1日1213時間労働、週74時間、栄養不良で発育虚弱、文盲。40歳で大方労働不能になったらしい。  わが国では細井和喜蔵「女工哀史」が有名だ。後発日本の産業革命は明治10〜30年代(1878〜1898)に達成したが、中核産業であった紡績女工の労働時間は1日12~18時間、食事休憩を与えず、握り飯を食べつつ働く。  時計の針を遅らせたり、10歳未満に労働させたり、寮の宿泊も二交代!で1枚の煎餅布団を2人の女工が交代で使った。年間帰郷女工8万人、うち1万3千人が重病、3千人が結核、年間9千人が死亡したという。これは当時の一般死亡率の2倍を超えていた。  最初の工場法はようやく明治44年(1911)に成立したが、紡績関係の資本家の一大反対キャンペーンがあり、実施は大正5年(1916)まで引き伸ばされた。機械は間断なく使うことを以って是とするというのであった。  しかも、工場法を推進したのは革新的官僚と、軍部であった。大阪徴兵検査であまりに男子工員の体力が劣るのに驚いた。これでは強い皇軍を作られないではないかというのである。  大正8年(1919年)第一次世界大戦の悲惨のなかから生まれたILO(国際労働機関)第1回総会は10時間労働制を締約したが、わが資本家代表は労働能率が低い、「工員は余暇時間を持て余して不善をなす」という一大名演説をしてのけた。日本はその条約から外れることに成功した。  昭和1年(1926)諸外国はすでに8時間労働制であったが、わが国は10時間半であった。組合組織率はやっと5%程度に過ぎなかった。  敗戦後、組合の旗印は「大幅賃上げ・時間短縮・経営民主化・有給休暇増」など掲げた。昭和22年(1947)労働基準法が成立したが、それはきっちり8時間労働制を定めた、まさしく画期的な基準法である。  ところが、元気のつき過ぎた組合活動にGHQ(連合国軍総司令部)の逆風が吹き、昭和24年(1949)には、かの36条協定が登場する。労働時間尻抜け法になってしまった。  昭和30年(1955)鳩山一郎内閣は、労働基準法臨時調査会なるものを立ち上げた。「一斉休憩を緩和・週休制の例外・年間300時間まで自由に残業可能・割増率を15%に引き下げ・年少者労働を認める・女子の残業深夜業拡大」などなど、まるで戦前回帰の提案が準備された。  ときあたかも諸外国から、わが国の製品がソーシャル・ダンピング(Social dumping)だと猛烈な批判・抗議が殺到したので、この法律改正は日の目を見なかったが、財界の意識底流には、今も脈々8時間労働制への不満がある。  昭和34年(1959)以降、もっとも時間問題が遅れていた商店街に、労働省指導によって一斉休日が起こった。大阪松屋町の店員があまりの酷薄な仕打ちに怒り、店主とその家族を惨殺したのが契機であった。  昭和38年(1963)電機業界に週休2日制が導入され、蛇行・逡巡・紆余曲折しつつ今日の労働時間状態に辿り着く。とりわけ1990年代のバブル崩壊後が、またまた時間を逆転させたような具合になっている。  制度の表面だけは立派なもので、1800時間台/年のお体裁だが、フルタイム正規社員でみれば、2040時間程度/年というのが現実である。昨年4月経済財政諮問会議では、これを1割減じて、1810時間にする・有給休暇100%取得(現47.1%)にする、と打ち上げた。たいしたものだ、なかなかよろしい見識・提案だと思ったが、なんと10年計画、2017年実現だそうな。  前述1919年ILO総会でも、わが国は、条約を10年延期させることに成功した。目標など、いかようにでも構築できる。官僚的空手形、約束魔術、なんとも人を小ばかにした提案ではなかろうか。  4/26は連合メーデーだった。皆様、労働時間についてじっくりお考えになったであろうか。「時は人生なり。」