RO通信 No.668 2007/5/14  ライフビジョン 奥井禮喜 またまた幸福論  内閣府が「幸福度に関する研究」なるレポートを発表した。結論は----「将来に対する期待感」から得られる幸福感は、「自他イメージの一致」や「時間密度」によって高められる----というものである。  レポートにも書かれているが、実際、人々はふだん「幸福とは何か」など格別考えていない。逆に、不幸(不具合)は極めて具体的な問題であるから認知度が明確である。  そこで「幸福なんて格別考えなくてもよろしいほどに幸福なのである」というような逆説的な意見がよく出される。しかし、これは間違いなく間違いである。不幸でないことと、幸福とは合致しない。  要するに幸福とは、自分の日々の人生における満足感である。格別不満がないからとて、しみじみ満足を感ずる訳ではない。何も考えていなければ不満も満足もありはしない。ペットの猫と一緒である。  かつて日本人は飢餓賃金時代にあった。食えるか、食えないか。これ、単純具体的であり、深刻である。だからベア闘争などに熱が入った。しかし、すでに1970年代半ばに、それについては関心が薄らぎつつあった。  要するに、そこそこ給与を手にするようになり、それに見合って暮らしていれば格別問題は発生しない。腹いっぱい食べた後、目の前にご馳走が出されても食べる訳がない。人間は餓鬼ではないのだから。  ただし、「空腹は満たせても心は満たせない」。そこで、当時「モノから心へ」というコピーを提供した。「心」であるから、理屈としては、百人百様、人それぞれ、千差万別である。どこかの首相も口走った通りである。  ところが当時、「大幅ベアできにくくなったから心でがまんするのか!」というような頓珍漢な意見が少なくなかった。大幅ベアといっても、「物価と賃金のいたちごっこ」していたのであるが。  つまり「実質賃金」論が本気で論じられていなかった。一方、理屈ではなく生活自体で高賃金(昔に比較して)を体感しているのだから、ベアは次第にかつての刺激・吸引力を失った。そして今日に到っている。  貧しさを克服せにゃならぬと元気を出さなくてもよくなったとすれば、上等である。いよいよ具体的に「青い鳥」を一目散に追いかけられる時代が到来したのであるから。ところが、問題はここからだ。  いったい「自分は何を追いかけていたのか」、「いかに生きるべきか」を問わねばならぬ。つまり、幸福でありたければ、幸福としての標的が明確でなければならぬ。幸福とは考えるものである。考えずして幸福はない。  考えるから幸福が見えてくる。見えるから追いかけようとする。幸福とは闘い取るものじゃなかろうか。闘わずして幸福を手にできるものか。しかし、考えないのだから幸福は存在しない。  家内安全・無病息災を希う。これ、果たして幸福であろうか。健康なときに健康を感じないように、幸福だから幸福を感じないという逆説。しかし、「何のために」健康を希うか。非病気、必ずしも健康ではないだろうし。  病気であれば回復したいと希う。回復すれば幸福だもの。そこで、メタボリック症候群の出番となったか。メタボリック症候群は本当に病気か。むしろ、不安を煽り立てているのじゃなかろうか。  メタボリック症候群など前提とすれば、あんたもこなたも全員が「予備軍」ではなかろうか。「禁煙・食生活改善・適度な運動」!健康面から、政治が日々の暮らしをコントロールするようなものではあるまいか。お世話のし過ぎだ。  幸福論的視点からすれば、人は「したいことをしている」→元気である。とすれば「したいことをする時間を増やす」、さらに「したくないことをする時間を潰していく」→元気である。  現代日本人は幸福論がない。だから元気がない。戦前、三木清さんは「現代人は幸福を考えもしないほどに気力喪失しているのではないか。」1960年代、寺山修司さんは「幸福とは幸福をさがすことである」と書き残した。  折から、自社版文庫本を少部数印刷中であります。そのタイトルを「勤め人の幸福論−職業生涯40年戦争」といたしまた。ご親切な官製幸福論ではなく、自前の幸福論を考えるよすがにしていただければ喜びます。