RO通信 No.662 2007/4/2  ライフビジョン 奥井禮喜 PPK雑感  高齢者の会合などではしばしば「PPK」(ピン・ピン・コロリ)が口の端に上るのである。なるほど長患いして本人も周囲も何かと苦労せねばならないから、「PP→K」、つまり忽然として去りたいという切なる期待なのである。  ピン・ピンの定義づけもなかなか難しい。ぴんぴんしているから酒を飲み煙草を吸う。メタボリック・シンドロームなどと書かれているものを読むと、まあ全員が予備軍である。こうなりゃぴんぴんより、ひやひやではないか。  それはともかく。PPKとは第一に突然死である。病気か事故か事件かはともかく突然おさらばするのである。ぽっくり病、交通事故、殺人、あるいは自殺なんてことになるのであって、これではあまり印象がよろしくない。  PPKに似たような考え方で「花のうちに死にたい」というのがある。しかし花なんて状態がいつなんだか、なかなか分からないもので、ひょっとしたら終に花が咲かずにお仕舞いってことだってあるだろうし。  花を青春期だとすれば、とてもじゃないが高齢社会なんてのが存在しないのであるし。「青春とは心の若さを言うのである」なんて青春を延長しているとどこまで行っても花なのであって畢竟PPKを唱えたくなるのだろう。  たまさか「今が花だ」などと強烈に意識しようものなら、えらいこっちゃ、花は散るもの、いつ散るか、散り際の美学なんて意識したりして心が波打ちとてもじゃないが落ち着かない。  「昔はよかった」と回顧するのはすでに花ではないのであり、甚だシャクに触る。そもそも花が咲くには種から、芽吹き、葉が出て、花が咲き、そして散り、実を結ぶのだから、花の時期だけの人生はありえない。  そんな訳で、そこそこの齢になって「花のうちに死にたい」などと言う、その花はいったい何だろうかと考えれば、ひょっとして「押し花」なのかしらん。心を押し花にする訳にはいきません。  「大往生」なんて言葉が流行ったこともあった。これ、どこかユーモラスな響きがある。「往生際が悪い」という言葉もある。粋が少なく野暮が多いのは浮世のならいにして、やはり往生際が悪いほうが多数派かもしれず。  肉体的にPPであっても、粋がなければ本質的にPPと言いたくない。そうすると「PP=粋」と置いてみることもできる。それを自他共に認識できればPPである。しかし自分で自分が粋だなんて思う奴が粋であろうか。  昔わが友人「世間は変わらず絶不調、不肖私は絶好調」とギャグを飛ばして周囲を笑わせておられた。氏は、どちらかといえばシャイで、ぎこちないところもあるが、ひたむきにサービス精神を発揮なさる。  ぎこちないのに粋というのも妙だけれど、実はそのぎこちなさにこそ本領があった。氏は要領のいい性質ではないからぎこちなくなる。で、精一杯他者にサービスしようとする心意気が尚更強く感じられたと思うのだ。  他人から見れば粋なのだが、ご本人はずいぶん周囲を気遣い、心配りしていたから気苦労が絶えなかったのではあるまいか。つまり他からすれば粋だが、本人にすれば粋だなんて考えたこともなかっただろう。  私は反戦平和主義者である。しかし、慫慂として戦線へ出て行く兵士を思うたびに、「自己滅却」したかに見える姿に頭を下げるしかない。すべての不条理、矛盾を問題にする以前に、その姿にまず低頭するしかない。  たぶん「自己滅却」「利他」の姿こそが粋の極地なのではないのか。環境・状況に文句をつける隙間がない。そこに戦争がわれわれの感性を惹きつけて止まない本質が存在するのではなかろうか。戦争の大義など糞食らえだ。  本来兵士は死ぬために闘うのではない。生きるために闘うのである。いかに生きるべきかなど悩む隙間がないのであって、ひたすら生きるために善戦敢闘するのである。特攻隊なんてのは客観的には人間の機械化であった。  そして戦争であるから、兵士に訪れるのはまさしく「PPK」である。平和な時代に高齢期を迎えられて「PPK」のお題目を唱えられる善男善女は客観的には幸福である。幸福を知らない幸福者であるとも言えるだろう。  作家の新田次郎氏は晩飯を食べると「戦争だ、戦争だ」と言いつつ書斎に入られたそうだ。だいぶ前、母親が亡くなったとき私はなぜか「戦死」という言葉を思い浮かべた。そうだ、私にとって「PPK=戦死」である。