RO通信 No.659 2007/3/12  ライフビジョン 奥井禮喜 働き方の再検証が必要だ  恒例春闘の真っ只中である。平均2.44%のベアがどうなるかということも大切だが、今、労使ともに「働き方」をどうするかという大問題に直面しているのではないだろうか。これをこそ話し合っていただきたい。  少し前、ホワイトカラー・エグゼンプションが大きな話題になった。その苦情不満は「残業代ゼロ」という「誤解」によるものだという経営者・一部識者の見解が出された。つまり、時間外手当支払い義務という規制緩和と労働時間規制の緩和とが混同されて論議されているところに問題があるとする。  この論理はまことに性質が悪い。経営側は一方で平然と「ワーク・ライフ・バランス」論などを掲げている。それを言うなら労働が他の生活時間に大きく食い込んでしまっている現状を率直に認めねばならない。認めなさいよ。  わが国は世界に冠たる長時間労働大国である。そこで「自己実現ワーカホリック」なる珍奇な言葉が発明される。企業が、仕事に趣味性・ゲーム性・奉仕性などを付加し、それに乗った方々の仕事中毒が増えているという。  仕事を楽しく面白くやれるのであればそれは批判するには当らない。むしろ誰でもそうありたいと考えるだろう。問題は趣味・ゲーム・奉仕性があれば無制限デスマッチでよろしいのか。話をすり替えてはいけない。  何のために仕事するか。畢竟生活のためである。いかに仕事が面白いとしても生活を破壊するためではなかろう。まして労働者は勤め人であって、独立自営業ではない。銭ゲバのシャイロックではない。  まあそれでもご本人が徹底的に仕事好き人間で何事をも顧みずというのであればそれは本人の勝手である。したいことをしつつ戦死するのは本望だろうから。ただし、そのような労働者が多いとは考えられまい。  わが社会は自由契約社会である。労働者は嫌な職場を去る自由がある。一方では労働移動が自由な社会になったという能天気な論調があるが、まったくのペテンである。ほとんどの労働者は職場を自由に選択できないのである。  契約自由という関係は建前であって、ホワイトカラーとはいえ労働者の雇用関係上の立場が決定的に弱い。昔より労働移動が多くなったが、職場を転々移動しながら高給の仕事につくような労働者は圧倒的小数派である。  労働移動が増えたのは、バブル崩壊後に従来の職場から放り出された労働者が圧倒的だったからであって、さらにはその影響をうけて学校を出てもしかるべき職場を得られなかった人々が増えたからである。  圧倒的多数が好んでフリーターやニートになるものではない。かくして労働移動とはますます労働者にとって都合の悪い職場へ移動することと同義語になってしまった。それを自由に働くなどと持て囃すのは詭弁である。  そこで格差論が登場する。格差というのは狭い意味で他者との賃金格差が拡大しているということを批判しているのではなく、労働者の地位が社会的に低下していることを言うのだと見なければならない。  建前は自由に職場を選べるのだが、現実はまったく違う。仕事にありついている労働者にしても、自由闊達に働けないのは当然であって、不満があっても我慢して働いている。だから長時間労働が蔓延するのだ。  長時間労働の定着化はマネジメントがきちんとしていないからでもある。マネジメントが正常であれば、かかる長時間労働については経営内部において解決策が取られて当然ではないか。マネジメントはどうなっているのか。  「長時間労働は仕方がない」。なぜなら「会社が儲からなければ仕方がない」からだという。会社は資本・経営・労働の三位一体だが、資本・経営の理屈だけがまかり通っている。だから労働者は「格差」を問題にするのだ。  かくして個人と組織の信頼関係は悪化している。そのような状態において「自己実現ワーカホリック」というような幻想的・麻酔患者のように労働しているなど笑止千万である。原因は明確である。  労働者の立場が経営に対して圧倒的に劣化しているからこそ、彼らは長時間労働を続けているのである。これが、残業代を引き上げれば決着するような性質の問題であろうか。労働者は労働者である前に人間である。  グローバルといえば何でもありの雰囲気だが、働き方をグローバルにするという視点が見られないのはいったいどういうことなんだろうか。