-人が育つ、組織が育つ  日本再生は働く人の元気から立ち読み

奥井禮喜 著
メディア・ミル発行
槇書店発売
A5版/本文332頁
本体2,000円+税


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出版に寄せて

 多くの個人にとって職場は人生の大半をすごす大切な場所だ。職場にいる時間の幸せ度は人生の幸せを左右するといってよいだろう。その職場における個人の幸せ向上のために労働組合の果たすべき役割はまだまだ大きい。
 個人は同時に生活人でもある。モノやサービスを消費し他者とのかかわりを楽しめるかどうかも、人生の幸せ度を左右する。仕事人としての個人の幸せには労働組合だけでなく企業も大きな関心とかかわりをもつ。しかし労働組合が企業と違うのは、仕事人としての個人だけでなく、生活人としての個人の幸せにも関心を持ち積極的にかかわる点にあると思う。
 近頃その労働組合が組合員の組合離れといった現象に象徴される存在の危機にあるのはなぜか。本当に組合はいらないのか。それとも必要な機能を果たしていないがゆえの危機なのか。組合員だけでなく多くの働く個人にとって無関心ではいられないところである。
 本書はそうした労働組合のあるべき姿を洞察した好著である。著者の奥井禮喜氏が長年主唱しているライフビジョンという考え方は、まさに仕事人と生活人の両方を考えようということであり、そうしたスタンスから奥井氏は労働組合をあるときは慈母のように、またあるときは厳父のように見守り、応援してきた人である。著者のいう「お勤め人」に広く熟読・吟味されることを期待したい。

慶応義塾大学教授 清家篤 


2002年6月27日全国書店配本
この本は、労働組合を学ぶ学会「ユニオンアカデミー」準備会の旗上げを記念して出版しました。
序 論 働く人が輝く時代
第一章 当世お勤め人事情
第二章 問題意識がなければ問題はない
第三章 組合の存在理由と経営参加
第四章 理屈・蘊蓄いささかなりと
結 語 学ぶ活動こそ復活の鍵だ


序 論 働く人が輝く時代


 事実を冷静に見詰めたい

 現代日本を表現するのは四つの「不」。いわく「不況」「不興」「不安」「不快」。「いったい、 いつになったらこの下降・停滞状況を克服して景気回復できるのか」という悲鳴が聞こえて きそうである。何かがおかしい。この間いくつか明確になったことがある。キャッチコピー では改革できないこと。リストラが本当のリストラではなく、単なる減量経営に過ぎなかっ たこと。成果主義が看板だけで成果が出ていないこと。一〇年近く無為無策が継続している のに日本が沈没していないこと。今まではね。
 経営とは何か。煎じ詰めれば「人」「モノ」「カネ」を有効活用することであるが、最優先 したはずの「モノ」「カネ」が景気回復の力になったか。会社の救世主になったか。何よりも 社内において「人」が大発奮するような出来事――知恵が出たか、行動力が増大したか、結 束力が高まったか。バブル時代の勘違いがそのまま残って、会社を変え、日本を変える力を 妨害し続けたのではなかったか。「右肩上がりの時代が終った」という言い方は、正しくは「資 本主義の終焉」であるが、では今後いかなる社会をめざすのか。言葉の吟味がなされず、騒 ぎ立てるわが国の習癖は相変わらず健在である。いささかげんなりさせられる。
 経済とは何か。一人勝ちできないのが経済である。需要と供給がバランスしなければ経済 は不健康になる。供給サイド、売る立場でばかり考えてきた結果が今日の不活性現象ではな いのか。貧しく商品が不足している時代はとっくに終った。人は意味を求めて生きる。人々 の生き方から考えなければ、経済も成り立たない。消費が元気であることは人々が輝いてい るのである。大衆社会たるわが国において、圧倒的多数を占める働く人が輝いているか。


 わが大衆社会的状況

 二〇世紀の愚挙としては核開発、二度の世界大戦、環境破壊が昂進してしまった。しかも、 これらに対する世界の学習効果が上がったとは到底考えられない。快挙としては科学技術の 進歩、経済発展、長寿化が挙げられる。しかし、これらはいずれをとっても現代世界に軋み をもたらせている意味において、ただ喜んではいられない。われわれはひょっとすると後世 を犠牲にしつつ生きているのじゃあるまいか、と。
 そして大衆社会mass societyが登場した。大衆社会の基盤は大量生産・大量消費・大量移 動・情報化である。大衆が行動しなければ、社会は動かないはずである。換言すれば民主主 義がもっとも発達している社会でなくてはならない。しかし、民主主義の旗手を自認する米 国では、今世紀の早い時期に「民主主義の暴発」が発生すると予測する向きがある。彼らが もっとも大切にしている「自由」のゆえに差別が拡大し、矛盾が高まっているからだ。 わが国ではどうか。極端に高い支持率を有する首相が誕生した。そもそも民主主義とは万 人平等ゆえに、英雄などを待望しない社会である。かの支持率はその政治的卓抜さ、経綸な どに基づくのではない。たまさか「改革」という言葉に、現状逼塞感に倦んでいた方々が便 乗してのけたに過ぎない。事実、またぞろ旧態依然の状態に逆流しつつある。
 わが国は経済的に不振をかこつているが、まず金融・財政政策の手詰まりを指摘しなけれ ばならない。国と地方がGDP以上の借金を抱えている状態。日銀がいわば資金をじゃぶじ ゃぶに用意している状態を考えれば、金融・財政政策に景気の先行きを期待しても無理な相 談である。銀行とて企業であり、軽々しくリスクをとれないのは当然であろう。事実、この 数年間七〇兆円にものぼる不良資産を処理してきて、なおかつ不良資産が増え続けている。 わが国経済全体としての需要を喚起しなければ、この泥沼を脱出することはできない。
 最大の癌は会社経営の誤謬にこそある。今、企業が展開しているのは――リストラ restructuringではなく厚化粧した減量経営・縮小均衡に過ぎない。賃金を下げ、首を切って ただいまの経理内容を均衡させたとしても、収益が上がらなければまたぞろ減量経営を繰り 返すのみであって――実際、この数年間はその悪循環にはまっている――今の企業経営者の 態度は「神風」が吹くのを待っているとしか考えられない。雇用のためのセーフティネット 論が花盛りであるが、失業保険は付加価値を創造しない。企業が社外に放出した方々の面倒 を結局は税金でみている。国民経済全体としてみれば、わざわざ遊ばせて、経済活性化に貢 献しない税金を使っているとしか言いようがない。五%を超す高い失業率において、人々が 財布の紐を緩めるわけがない。
 まして、緊急に購入したいモノはほとんどないのが現代のわが国の消費事情である。生産 が消費を牽引する社会は物不足社会である。企業の都合最優先、生産最優先思想が蔓延した 結果は、輸出にしか頼ることができず、しかも輸出も途上国の技術的・販売的追い上げを食 らって、国内企業活動の空洞化を昂進させているだけだ。
 回答は出ているのである。つまり、経済活動の機軸とするべきは、消費を優先することで ある。消費を磐石化するのは雇用である。だから完全雇用を戦後のように最大課題として位 置付ける。過剰生産になっているのは過剰雇用だからではなくて、過剰操業・労働している からである。有給休暇はやっと過半程度しか取得されていず、なおかつ、その取得方法はち まちまと、本来の有給休暇の体裁をなしえていない。過剰生産だといいつつ、サービス残業 までやっている。消費を軽視してきたツケが今のわが国の経済的低迷につながっている。


 経済は人々の暮らしのためにある

 経済は人生の充実のためにある。生産は消費のためにある。消費とは人生そのものである、 という原則に戻るべきなのだ。消費が不活発であることは単に財貨サービス購入の行動が不 振であるだけではない、人生という時間を消費しているわが国民諸君が、元気のない日々を 過ごしていることを意味するのである。元気喪失した人々が多い社会において、財貨サービ ス購入活動(=狭い意味の消費)だけが昂然気を吐くわけがないじゃないか。
 「マズローの欲求五段階説」はつとに有名である。人は飢餓を克服するために食べる。お 腹がくちくなれば抱き合いたくなる。社会的存在としての自分の存在を感じたくなる。そし て自分を認めてほしくなるし、さらには生きているという充実感をもつ人間になりたくなる。 生存欲求を入り口として、安定欲求、社会的欲求、自我欲求、自己実現に到る欲求を五分類 し、一つの欲求を満たせば上位の欲求に挑戦するというのがミソである。しかし、彼は同時 に「欲求が強固な妨害に出会うと人は精神的に病む」という指摘もしている。「楽天的な欲求 を確保している人は精神的に強い」。V.フランクルというユダヤ人医師はナチ収容所に捕らえ られていた人々を観察して指摘した。今のわが国は健康的・建設的な欲求が影を潜めてはい ないか。一日のだいぶぶん、人生のだいぶぶんを過ごす職場において、果たして愉快な時間 が過ぎているであろうか。すべてが「数字」でしか語られなくなっている企業社会では、働 く喜びや、それを再生産する意欲が湧くであろうか。
 経営者とは収益だけによって評価されるものではない。否、そうであるためには、社員が 社業の意義を認め、自分のミッションmissionを確信して健闘するように組織しなければな らない。今の経営者は恫喝的言辞をもてあそんでいるだけではないのか。バブル崩壊後、わ が国の企業経営における最大失点は、人々から働く喜びや意欲を奪ったことではなかったか。
 かつてわが国においても、人々の欲求対象は「生存そのもの」であったが、「食えるための 賃金をよこせ」という飢餓賃金時代のスローガンは、今や過去の遺物となった。人々は生活 の糧を求めて働くが、では生活の糧を獲得すれば人生の目的が達成されたのか。そうではな かろう。食って寝て働いて――だけでは人生の意義が感じられない。お金がないから元気が 出ないのではないのだ。お金は史上最高、個人金融資産は千四百兆円もある。お金があるの に元気が出ないのだ。なぜか。人々の欲求対象は「生存そのもの」ではなく、「生きる意味」 へ転換したのである。限られた生において、いかなる生き方をすれば自分らしいのであろう か。それこそが、目下の消費低迷、元気低迷の鍵である。


 人生には目的が必要だ

 元気な人生には「目的」が必要だ。目的とは意志の具体化である。「意志はすべての生命を 駆り立てるが、それ自体を果てしなく更新する以外には何の目的も持たぬ」と喝破したのは ショーペンハウエル(一七八八−一八六〇)である。この言葉は恐ろしいほどに真実を抉っ ている。さらにニーチェ(一八四四−一九六〇)は「意志は神になろうとする人間の苦闘の 表現である」として人間は進化をめざさねばならぬと指摘した。世界を驚愕させたテロリス トたちは、優秀な資質をもつ人々であった。しかし彼らは人生の罠にはまった。目的のない 人生は退屈であるが、目的を誤ればおぞましい。何を人生の目的・目標とするべきか。これ は現代人すべてが問い続けなければならない絶対のテーマである。
 人は――くう・ねる・はたらく・あそぶ・まなぶ――時間を延々、命が燃え尽きるまで続 ける存在である。しかし、無意味な時間を過ごすと「退屈」にとらわれる。人生それ自体が 実は退屈の仕掛けである。なぜなら、人は習慣の生き物であり、習慣を繰り返せばマンネリ ズムの罠に落ちる。そうなれば退屈にひっ捉まる。働かずに食べられればいいのに――と呟 く人は少なくないが、働かなくていい時間が増えれば、それだけ「人生の意味」について考 えなければならない。人々は「忙しいから考えない」と言う。しかし、本当は「考えないか ら忙しい」のであるし「考えないから退屈」なのである。
 とにかく面倒臭い。「生きる意味」など考えたくもない。たしかにペットの猫は「猫生をい かに生きるか」などと悩んでいるようには見えない。与えられた時間を悠然とあるがままに 受容して生きている。ひょっとすると人間よりも、猫のほうが上等な生き物か。しかし、猫 と同じでいいか。人間は猫ではない。人間は「人生」というものを発明してしまった。「生き た」と感動できるか、それが問題である。
 現状を克服するためには、ものごとの道筋を立てて考えなければならない。経済は人間が 生きるためにある。今、われわれはいかなる生き方を模索しようとしているのか。それを常 に追求しなければならない。日本人は一九八〇年代以降、目標喪失状態にある。その一つが 幸福を考えなくなったことである。幸福に生きている人は元気だろう。不幸だと思う人は幸 福を手にするために闘うに違いない。幸福でもなく、さりとて闘いもしないのは、幸福論が ないからだ。つまり、退屈なのだ。退屈しのぎのために周囲には現実逃避的「気晴らし」が わんさか氾濫する。


 個人の元気が社会の元気

 今、お勤め人の皆さまは「不況・不興・不安・不快」の雰囲気にどっぷり浸って、「これ以 上悪くならないでくれ」とばかり、じっと我慢の蛸壺生活しておられるように見える。しか し、ヒーロー登場してなんとかしてくれるわけがない。主人公は蛸壺暮しのお勤め人なのだ。 一人ひとりはささやかな存在であるけれど、社会は個人が作っている。個人の元気の総和が 社会の元気なのである。人間は孤独な存在であるけれど、皆が孤立していたのでは社会が立 ち行かない。孤独ゆえ人は連帯を求めて、連帯して社会を発展させてきたことに思いをはせ ていただきたい。
 この本のフィールドは労働組合である。いまどき、組合の話なんてと考える方々がメジャ ーであることは重々承知している。しかし、考えてもみてほしい。大衆社会は大衆が主人公 なのであり、その大衆が作っている組合は大衆社会最大のネットワークである。組合の社会 的発言力が弱いということは、社会の主人公たちが、その権利と責任を十分に果たしていな いということになるのじゃないか。大衆社会において、組合がきちんと社会的発信力をもち えていないのは、厳しく言えば大衆自身のサボタージュである。
 ――自分はプロフェッショナルであるから組合なんかの力を借りなくても一人でやってい ける――とおっしゃる方々も少なくなかろう。そうだろうか。われわれは自分の職業能力を 通じて社会の発展に寄与するべきである。単に自分と家族の糊口をしのがんがためだけにプ ロフェッショナルたるわけではあるまい。「数は力なり」と言うけれど、力なく知恵なき方々 ばかりでは、烏合の衆にして力が出ない。プロフェッショナルだからこそ、自分の力のなん たるかを知り、また限界も知っているはずである。とすれば、連帯すればもっと大きな社会 的貢献ができると考えるべきじゃなかろうか。
 学びあい、知恵を出しあって、ただいま苦境、もたもたしているわが国の再建に立ちあが ろうではないか。組合はもともと働く方々が不遇であったときに出発した。当時に比較すれ ば、今のお勤め人は個人的にもかなり大きな力をもっている。それをさらに組合に結集でき れば、おおいに社会的貢献ができる。今の日本、政治家、官僚、経営者もだらしがないけれ ど、圧倒的多数派たるお勤め人=大衆もまた惰眠を貪っているのじゃなかろうか。私は「組 合は人間の学校である」と言いたい。
 この本の中心には「メール塾」による、山武労連の若い組合役員と、私のやりとりを掲載 している。彼らはほとんど非専従役員である。厳しい仕事をこなしつつ、組合の仕事に汗を かいている。eメールを使って、私が課題を提供し、彼らがレポートを送ってくる。それに 対して私がまたコメントする。ざっと半年間で四課題をこなす。ここにはそのうちの二回分 を紹介している。仕事・組合活動に加えて考え、文章を作るというのはなかなかどうして大 変なエネルギーである。なによりも、仕事と組合を両立させつつ、彼らが組合員と組合活動 の在り方について考え、悩み、奮闘し、成長してこられた足跡が読み取れると思う。
 そして、最後に皆で学ぶための「ユニオンアカデミー」(組合学会)を提案する。この本に はずいぶんパルプを使ってしまったけれど、わが大衆社会の元気に対する提言を盛り込んだ つもりである。読んでください。勉強会の仲間に参加してください。


 山武労連の皆さまに、また、組合ものという、あまり商売になりにくいジャンル!の出版 を引き受けてくださったメディア・ミル社、出版に尽力してくださった新妻健治氏に深甚な る感謝をいたします。
奥井禮喜 
 二〇〇二年六月吉日


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