-いきいき人生設計プログラム立ち読み

労働科学研究所
本体1,456円
B6版/本文254頁
<目次>
プロローグ 人生設計はいかに誕生したか
第一章 人生設計の意義
第二章 コンセプトは絶対元気
第三章 人生には「間」こそが必要だ
第四章 無趣味の達人こそ真の達人だ
第五章 倦怠と目標の必要性を考える
第六章 幸福論について考える人生設計
第七章 元気な個人をどんどん生み出せ
資料編

プロローグ
人生設計が人生を変えた
 極端に言いますと人生設計システムを作ったことによって自分の人生が変わって しまいました。人生設計をして人生を転換したというように格好いいのではありま せん。会社をやめて独立開業しましたときに、「あいつはもともとああいうことを やろうと思っていたのとちがうか」と、なにか足抜きしたみたいな言い方をされた こともあるんですが、とんでもない話で、そもそも、かつて十九年と半年お世話に なった三菱電機という会社はいい会社でございまして、少々不況になってもがたが たするような会社ではございませんし、仕事のできない私でも定年までのんびり暮 らせる会社だと思っていました。
 私は実際に最後までいたかったんです。いたかったんですけれども、なぜか人生 設計システムを考えついたことによって、気がつけば人生が変わっていたというの が、偽らざる事実です。人生設計が私の人生を変えたのですが、人生設計して人生 を変えたのではありません。恥ずかしながら…(笑い)

日本の人生設計の嚆矢
 人生設計システムの嚆矢は三菱電機労働組合です。格別に三菱電機の宣伝のため ではなくなぜ人生設計システムができてきたのか、お伝えしたい大切な問題があり ますので、最初にぜひ皆さんに聞いていただきたいのです。
 というのは、今、世間で行われている人生設計はさまざまありますが、大部分は 研修会社が、これからの研修のジャンルとして「もうけネタ」として始めたもので す。たとえばある社のプログラムは三菱電機労働組合の成功の後、同社が研修ノウ ハウを活用して開発されたものですが、最初のプログラムは現在大妻女子大教授の 松山美保子さん、日経新聞社の早川克己さん、私などが関わって作ったものです。
 このプログラムは値段も相当高うございますが、内容的にはなかなかよくできて いるプログラムです。ただし最大の問題点は、人生設計というのは仕事とか職業人 生だけの活性化を狙うのではなくて、全人格の活性化をねらうことによって、結果 的に職業人生のほうにもインパクトを与えようというのであるのに対して、同プロ グラムの場合は職業人生に対するインパクトを直接的に与えることを焦っている気 がします。
 それは当時、われわれは相当議論をしたところですけれど、彼らが言うには人事 部へ売り込みに行ったときに、「仕事の活性化の役に立ちますよ」と言わないと売 れないということをさかんに主張するのです。営業政策上の問題だから仕方がない と言うが、本来のプログラムの在り方からすると残念なことです。しかし、それは それとして、よくできているプログラムの一つであることは否定しません。
 また米国の退職準備プログラムを土台にしていることになっているある種のプロ グラムですが、私はこのプログラムははっきり言って魅力を感じません。まずアメ リカでおこなわれている退職準備プログラムと比較をするとかなり発想のスケール が小さい。アメリカの退職準備プログラムは、極端にいえば大学の講座に近いよう な突っ込んだものもありますし、専門学校でやっているような専門性の高いものも ある、宗教や死生観も扱うという、相当奥行きの深いプログラムが展開されていま す。
 ところがかのプログラムにおいては人生の重大事は「健康」「経済」「生きがい= 余暇」の三つであるなどと、いとも簡単に規定してくれるのです。これだけでも私 は非常に問題を感じてしまいます。そして経済の主要なプログラムは、年金の話が 主体になっています。年金の話が大切でないなどとは言いません。しかし年金が人 生設計であるというには問題があります。もう少し本道を歩いてもらわないといけ ない。これは後ほどじっくり説明しましょう。
 それ以外にたとえば、ある社の「心の冒険」というのがあります。これはアメリ カのプログラムで極めてアメリカ的な「人間は目標を持つことによって、はじめて 人間になるんだ」。だからその目標を自分でしっかり作り上げていきましょうとい うもので、これは伝統のあるプログラムで、人生設計という名前は使っておりませ んが骨格のしっかりした良いプログラムの一つだと思います。
 それ以外にもいろんなところで人生設計プログラムが展開されています。ですか ら私のプログラムも流派でいえば、そのうちの一流派ということで理解していただ ければ結構です。

画期的だった賃金・身分制度の近代化
 さて、三菱電機労働組合はなぜ人生設計のプログラムに近づいたのでしょうか。 あらかじめ人生設計研修というものがあって、それをやってみようと思ったわけで はないんです。保守的といわれる組合としては珍しい話ですが、まったくのオリジ ナルなのです。組合活動のなかから生み出されてきた。ここに値打ちがあると言い たいのです。
 話が少し長引きますけど、三菱電機という会社の人事行政は非常に先進的伝統の あるところでして、たとえば企業年金制度は日本でトップ、昭和二十年代初めにす でに導入されていました。週休二日制導入は、一九六三年に隔週週休二日でしたが、 これも日本で最初です。その後、松下電器が一九六五年に完全週休2日制を打ち出 し、これで一気に電機業界では週休二日制に移行したのです。
 あるいはまた専門職制度というのがさかんに言われておりますが、専門職制度は これも三菱電機がトップです。そして一番早く専門職制度を採用いたしましが、他 社が一生懸命に「専門職制度はこれから役に立つのではないか」と言っているとき に同社はさっさと廃止してしまった。公開セミナーなどでは人事マンが「わが社は 専門職制度を採用し、いかにして廃止したか」などという講演をしたものです。そ れから世間では資格制度は一九八〇年代に主として中高年対策としてさかんに採用 されましたが、同社においては一九六八年に、若年層対策の切り札として採用され ていました。
 というわけで戦後の人事管理をていねいに見ていきますと、非常に改革的な伝統 をもっている会社でしょう。
 一九六八年の新賃金制度・資格制度の採用は当時画期的なものでした。実際、当 時の財閥系企業は厳しい身分差別が牢固として残っていました。職員と工員、臨時 工、下請けとあたかも社内序列は士農工商そのものです。私が三菱電機に入ったの は一九六三年ですが、職員と工員とは給料日もちがうし、かたや月給制、他は日給 制。出勤する場合の出勤カード箱もちがう、門の守衛の態度も相手によってちがう という具合でした。
 組合はこれではいかんと言うようになった。もちろん会社も若年層から定年まで いきいき元気で仕事してもらいたいのですから、こういう身分制度をいつまでもや っていられない。労使の気合いが合って、いよいよ大々的に賃金・身分制度近代化 に着手しました。組合は職員も工員も関係なしに一本でいこうという柱をもとに、 能力実力主義、同一労働同一賃金を掲げて、だいたい五年間を費やして組合内部で も会社内部でも、労使間でも真剣に激しい議論が展開されました。まさに労使が英 知を絞り合ったといえます。
 そこで新資格制度を作った。特徴は一つはホワイトカラーとブルーカラーの差を なくして、学歴偏重をなくして、中卒の人でも女性でも試験に受かっていけば重役 になっていけるというコースにした。これは当時としては、すごい大騒動だった。 当時の週刊誌に「三菱電機では女の子が部長になれる」という見出しがついた。そ のぐらい大騒動したんです。
 もう一つは賃金制度というのはご承知のように、日本の場合は単身者の賃金を低 く抑えておいて、年功を積んでいけばグッと上がっていくように年功序列になって います。それを当時、われわれ若者にしてみればおおいに不満です。おかしい、同 じ仕事をしているのになんで若いからということで低いんだということでガンガン 文句を言いまして当時のベア要求では、平均で一万円賃上げをするんだとすると、 そのうちの半分を定額で要求し、年齢も性別も関係なしに、全部五千円を積もう。 あとプラスのところを率でいこうというような方針が主流でした。
 その結果、賃金カーブの急激に立っているものが、だんだん定額のところが多い ですから、寝てきます。これに加えて新賃金制度ではさらに年功要素を薄めた。そ れから数年も経ずして、この効果が著しく出てきました。簡単に言えば若い方は賃 金がどんどん上がる。もちろん高度経済成長で初任給も上がっておりますから…。 一方、中高年層以上は会社も賃金を全体に抑えようと思っているわけですから、挟 み撃ちに遭いまして、中高年層の中だるみ現象が目立つようになってきた。

中高年層の不満が背景に
 ところが、この世代はご承知のように、子供を学校にやらなければいけない。家 も建てなければいけない。お金が一番かかる層ですから、生活が苦しいわけです。 昔の先輩のことを思えば「先輩たちは、もうちょっと楽だったよなあ」みたいなた め息が出てくる。というので当時、有名な言葉がありまして、「子持ち中高年をも っと大事にしろ」という要求が労働組合の定期大会なんかでたくさん出るわけです。  もう一つは、当時はテレビ工場全盛の時代で、テレビ工場は、今日、皆さんが座 っていらっしゃるぐらいの間隔で一ラインが五〇〇メートルぐらいのコンベア・ラ インで、全部同じ格好をした若い女工さんが生産の中核をになっている。私のいた のは兵庫県にある事業所ですけれども、当時の女工さんは熊本とか宮崎とか鹿児島 からの中学卒の集団就職者です。
 口の悪い連中は人事部のことを「人買い」などと呼んでいた。あたかも安寿と厨 子王みたいな気風なんですね。集団就職列車で中学卒の少女たちが都会へ出てくる。 懐かしい映画の世界ですけれども…。そのまだ幼さを残した女性たちが一斉にハン ダづけをやったり、ドライバーでネジを締めたりの作業をしているんです。
 この子たちの班長さんというのは、だいたい一人で八十人とも百人とも担当して いるわけです。その班長さんがだいたい中高年層で、早くいえばお父さんみたいな もので、現場で女の子たちの面倒をみる。ところが現場のテレビ工場のラインの班 長というのは、次第に若年層化するようになった。もっと若手を登用しようという わけです。そうすると女工さんたちのお兄さん、ちょっと上ぐらいの感じになりま す。
 以前は四十なん歳ぐらいで班長をやっていた人が、五十歳近くなるところで班長 が終わって、スタッフになって定年までいくというスタイルになっていたんですけ ど、三十代になるかならないかで班長になるようになり中高年になったら班長を解 任される。現場の人でよっぽど優秀な努力家で試験に挑戦してホワイトカラーコー スへ行けば別ですけれども、大部分の人はそこでスタッフになっちゃう。そうする と定年まで十数年、下手すると二十年ぐらいずうっと肩書きなにもなしで行っちゃ う。
 職場のなかで上昇する気力もなくなるし、給料もたいして上がらない。いっぽう、 新しく入ってくる若い連中の給料ががんがん上がってくる。こんな感じになってま いりまして、三菱電機の組合が中高年対策に手をつけた最大の理由は、現場の方々 が「このままでは私たちは不満だ」と意思表示したところにあるのです。これはち ょっと頭に入れておいていただきたい。
 日本で他の会社で人生設計が導入されたなかには、極端な言い方をすると肩たた きの一つの手段として導入されたところもあるのです。三菱の場合は、明らかに事 情がちがうんです。皆の要求があったから、同組合では「中高年対策」という言葉 はきっちり市民権を確保していました。世間では「熟年」なんて言葉を作り出しま して、「中高年といわれると嫌だけど熟年と言われると気持ちがいい」という変な おじさんがいたので、私は嫌みを言い続けました。
 「柿が木の上で熟したら落ちてグチャッとつぶれるだけやないか。そんなふうな 熟すという嫌な言葉よりも中高年という一定の年齢層を示す言葉のほうがよっぽど いいじゃないか」と。余談ですが、最近は言葉尻をとらえて差別だのなんだのと言 い過ぎる。学術用語の定義づけなら必要かもしれないが、なんでもかんでも差別に 結びつけていたら、そのうち話す言葉がなくなってしまうかもわからない。  問題はどういう意識で言葉を吐いたかにあると思うのですが…この「熟年」なん てのは本質的に差別の意図を覆い隠す、きわめつけの差別語だと私は今も腹が立っ ています。「中高年」でいいじゃないですか。
 当時はこういう私の言いかたは少数派でありました。今もたぶん少数派だと思い ますけどね。そういう状態で当事者たちが「中高年対策をやってくれ」というとこ ろから始まった。

アイデンティティー・クライシスこそ問題の本質
 それからこれは当時のメジャーではなかったんですけど、私はもう一つちがう見 方をしていたんです。というのは、当時、電機業界では技術革新が激しく進んでお りました。現場の方々というのは、たとえば同期入社で同じように十年間経過した 人で、同じ仕事をやっている人であっても、AさんとBさんとは技能のレベルが全 然ちがうんです。技能というのはまさに日々仕事をしながら自分を磨いていくこと ですから、当然、相当技能の質の高い人もいるし、だめな人もいるわけです。
 そういうふうに十年、十五年で一人前になっている人が、たとえば職場の生産の システムが変わると、今まで培ってきた自分の価値が、これは彼のアイデンティテ ィーですね、これが実際はゼロじゃないんだけども、その職場にいるかぎりはもう おおいに価値の下落を引き起こすわけですね。
 今まで「こういうふうにしてゲームをやれ」といわれて、そのゲームの達人にな ったところで、「はい、ゲームのルールが変わりましたよ」と言われたときの労働 者のつらさというのは、それはもの凄いショックでしょう。給料が少々安いとか高 いとかの問題ではない。最近はアイデンティティー・クライシスという言葉を使い ますけれど、当時はそういうことは言わなかった。それが私は非常に気になりまし た。
 そんな時代、なんとかしなければいけないと、一九七二年に組合に「中高年問題 研究委員会」ができまして、翌年、ざっと半年ぐらいかけて八千人を対象に中高年 者のアンケートをとるのです。当時の組織人員は五万人で四十歳以上を中高年と呼 んでいました。かなり壮大なアンケートでしたけれども、それを分析しました。
 その結果、当時の中高年層の意識と暮らしは事前に予想していたのとそんなに極 端に変わらない。要するに世の中がどんどん変化する。変化するなかで彼らにして みれば縦社会で、言われたことをコツコツ一生懸命やっていけば、真面目にやって いけばそれで人生がうまく開けるんだと思っていたけれども、だんだん世の中が変 わってきて、そんなふうにこの道一筋四十年でいけるような単純な話ではなくなっ た。
 昔はレールかなんかの検査をハンマーでカンカンとたたいて、音を聞いてクラッ クがあるかどうか調べる。今は非破壊検査機がある。高級スピーカーの音質を職人 さんが耳で聞いて調べていた。その耳を鍛えるために砂浜へ行って、砂浜に耳をく っつけて砂の音を聞くんです。そんなことをやって、この道一筋なん十年といって いた時代は思えばロマンのある時代でもあった。
 今ではよぽどの仕事でないかぎり大方は皆がオペレーターに過ぎない。早くいえ ば、職場はどんどん変わるのが前提で、変わる業態のなかでどうやって自分のポジ ションを作っていくかということが問われる。
 理屈ではこう簡単に言えるんですけど、なかなか大変だったのです。コンピュー タを作ろうという話になってきたら、今度はコンピュータを作っている会社なのに、 皆がコンピュータにアレルギーを起こす。たとえば、当時の先輩はアルファベット にアレルギーを起こすわけです。彼らは子供のときにアメリカは敵だったわけです。
 「鬼畜米英を倒せ」ということで、英語は敵性語ですからアルファベットは知ら ないほうがいい国民であって、英語なんてやっていると非国民だったわけですから、 その彼らが突然、今度はコンピュータの図面の世界で英語が出てくると、ギブアッ プするのは無理ないと思います。
 そういう、今からしてみたら漫画みたいな話がいっぱいあるわけですけれども、 要するに「世の中は変わる」というのは当たり前なんだけれども、変わるときには 自分自身に大変なアイデンティティー・クライシスが起こっていて、そこから新し い状態に適応していくのがいかに難しいかということが見えます。

中高年者の勉強会を始めた
 そこで勉強会をやろうということになりました。ここら辺はまた労働組合的で単 純なんです。世の中はどうなるかわからないから勉強会で学ぼうというのです。最 初のころは、だいたい座学が多かった。えらい先生方の講義を聞きます。たとえば まだ当時、神奈川県知事になる前の長洲一二先生にお願いして、「日本経済はこれ からどうなるか」などという話を中高年層に聞かせるわけです。
 長洲先生は『日本経済入門』(カッパブックス)で日本最初のベストセラーにな った先生で有名ですし、なかなか難しい話をやさしく語っておられましたが、でも やっぱりみなわかっていなかったですけど…。テレビに出ている有名な先生が身近 に来て話しておられる姿をみんな一生懸命聞いているわけです。現場でガーガー言 っているおじさんたちが真面目にに聞いている。終わってから、
 「どうでしたか」
 「いやあ、よかった」
 「どこがよかったですか」
 「ようわからん」(笑い)
 そんなことでなんべんでも繰り返す。確かに感謝はするんです。よかった、よか ったとね。だけどなんの役に立つのかと考えれば、あまり役に立ちそうではない。 まあ動機づけはできたかもしれない、世のなか変わるなということを感じたぐらい のことは…。
 そうこうやっているうちに、どうもこれでは、いまいちパンチ力が出ないなと思 う。いっぽう、夜になりますと、長年ご苦労さんの組合員のこと、組合というのは、 そもそも、やらずぶったくりの組織でございますから(笑い)、組合員から巻き上 げたショバ代をそういうときに一杯飲ませてお返しする。
 当時は座敷で宴会をやるわけです。昼間はおとなしくしているおじさんたちが、 夜になってお神酒が入ってまいりますとがぜん元気が出てきまして、矢でも鉄砲で も持ってこいというようなもんで…。当時の組合の委員長も現場の出身です。その 人に向かって、私たちは「委員長、委員長」というようなわけですけど、飲んだ勢 いで職場の同僚ですから、「おいっお前!」というような調子でやるわけです。こ うなっては委員長のメンツもへったくれもありません。委員長の機嫌はよくない。 「こういう研修は止めてしまえ」と風前の灯になってしまいました。
 当時、中高年勉強会の予算はざっと年間に七百万円ぐらい使っていたでしょう。 もっとも当時の組合の年間予算は私の記憶にまちがいがなければ十七〜十八億でし たから、そのうちの七百万円ぐらいだからどうってことはない。もっとも組合予算 の半分近くは人件費や会議費ですから、各種の行動に使っていたのは半分ぐらいの 感じ。かなりのものですね。貴重な組合費を酒を飲まして、くだ巻かれてなるもん かという委員長の気持ちもわかる。
 そこでプロジェクトチームを作って、従来のように、ただ話を聞いてワーワーい うだけではあかん。変えなければいかん。みなで一つの問題を考えるようなシステ ムにしたらどうやというので、グループワークをきわめて原始的に取り入れて、最 初は「職場の問題についてお互いに語りましょう」みたいなことで勉強会をするよ うになりました。
 当時は家族の問題なんかには、まだあまり関心がありませんでした。職場の問題 について語ろうなんていうと、そこへ組合の役員が一人ずつつき合っているわけで すから、十人ぐらいのおじさんが囲んでいれば、二言目には組合の悪口や苦情のオ ンパレードです。

勉強会の方法を体験的に改良する
 またここで私は考えるわけです。文句をその場で聞くのもいいけれども、これば かりずっと続けていてもたまらんというんで、さあどうしようか。われわれがいな ければ、みなさん同士でしゃべるだろう。今度は世話役が一歩下がりまして、おじ さんばっかりで話し合ってもらう。テーマももちろん職場の話もありますけど、た とえば趣味の話をしてもらう。まずテーマからは愚痴や苦情の類いが消えていきま す。
 職場の話をしていても、非常におもしろかった。私は大発見したんだけど、十人 ぐらい囲んでいるでしょう。職場の問題について「言いたいことがあればどうぞ」 と言うと、やはり口火を切る人は口の立つ人なんです。きわめて恨みを込めてしゃ べります。これを他のみなさんが聞いているわけです。「うん、そうだ、そうだ」 とか思っているんですけど、次から次かへと苦情ばかりいわれると、黙って聞いて いる人はまるで自分が責められているような気分になってしまう。これはおもしろ い心理状態です。
 そうすると数人しゃべったところで、だいたい自主的に意見が出ます。「まあ文 句ばかり言ってもしようがないから、問題解決するにはどうしようか」というよう な話が出てくる。
 それを見ていて、すごくおもしろいな、大切なことは人の自主性を引き出すこと なのだと思った。以降の中高年研修は全部、グループワーク・トレーニング方式を 採用して、講師の話はできるだけ減らすというスタイルに切りかえました。
 いろいろ工夫したんですよ。たとえばお酒を飲むと、いくら昼間いいミーティン グであっても乱れやすい。当時、私はまだ二十代後半でしたけど、もう中高年の先 輩に向かってお説教を平気でたれていましたからね。正しいことは正しいと思った のですが、それは四十歳、五十歳のおじさんにしてみれば、年下の輩が偉そうに人 生語っているわけですから、腹が立つかもしれない。腹立てて逆らったって、こっ ちはしゃべるのが仕事、二言は余計に答えるんですから、昼間は黙っているわけで す。夜になって酒を飲むと、「おい、お前、おれの杯がうけられんのか」となるわ けです。
 また理屈を考えます。労働者がいい酒を飲むようになるのも労働者の勉強の一つ にちがいない、と。そこで立食パーティーに切り替えた。当時、立食パーティーを 労働組合でやっているところはそんなになかったでしょう。ほとんどみんな座って、 浴衣着てガーガーやっていた。立食パーティーに変えただけで、パーティーの中身 もずいぶん変わりました。立食だといろんなのが置いてありますから、洋酒にだん だんシフトしていきますし、座っているのとちがって移動するから、いろんな人と 話をする。
 パーティーというのも大事ですね。日本人の生活の中では四畳半のちゃんちき型、 手拍子の宴会はあるんだけど、日本人はパーティー下手だなと痛感したものです。 今もパーティー下手ですね。今はカラオケです。カラオケなんて、メーカーさんに は悪いですけど、私の見たところ、カラオケコミュニケーションなんていうのはあ りえません。下手ほどマイクを離さない。その気持ちもわからんではない。今度こ そ着地を決めようと思うんでしょうが、下手ですから、なんべんやってもスリップ しちゃうわけ。だからいつまでもマイクを離さないということになる。(笑い)
 いっぽう、うま過ぎる人の場合はどうかというと、私なんかかなりうまいですか ら、歌いますと完全に座が白けます。うま過ぎるのは確実に嫌われる。そうして歌 っている間に、聞き手は本当に一生懸命聞いて、気持ちが共感しているのかという とちがうんです。次は何を歌おうかなと横を向いているわけです。なにがコミュニ ケーションでしょうか。まさに日常的にコミュニケーションができていないという 状態をカラオケでまたまた示しているだけであって、やめた方がいい。あんなこと をやるんだったら、申し訳ないけど、私なんかは気のきかない女の子がいるクラブ に行ってしんみりと手を握って黙っている方がよっぽど楽しい。絶対、私は自分で カラオケにお金を使いません。
 アメリカにはたしか「仕事もパーティーも両方こなせる人はなかなかいない」と いう名言があるはずです。いつまでも四畳半的宴会の世界に停滞していたのでは切 ないし、一人の人間が堂々と新しい友人との出会いを獲得できるような場として、 パーティーを上手に活用できるようになってほしいものです。
 人生設計セミナーの夜は、会費制でいいのだから、立食パーティーを開催して、 コミュニケーション能力の開発に役立ててほしいと願います。まちがえても他の研 修のように夜も遅くまで勉強するなどの愚はおかさないでほしいのです。パーティ ーの仕方も、考えてみればずいぶん意味がある。細かい話と思われるかもしれませ んが、日本最初の人生設計プログラムの黎明期はこんなものでした。
 当時、私が大変に示唆をうけたのは松山美保子先生の「産業ジェロントロジー」 という本です。これは名著です。たぶん、なかなか手に入りにくいかもしれません けど、これは今から四半世紀ぐらい前に出された本です。
 最近、ようやく「ジェロントロジー」なんていう言葉を日本で使っている人が増 えてきましたが、実はジェロントロジーという言葉は、私が知っている限りでは松 山先生がすでに四半世紀前に持ち込んでおられて、少なくとも三菱電機の労働組合 では理論誌上で「ジェロントロジー」にかんする論文を二十年前に掲載しています。

退職準備プログラムからの示唆
 組合員の中にアメリカの労働者と文通している人がいました。田中豊さんといい まして、今や八十歳を越えましたが、日々充実して暮らしておられます。田中さん がアメリカの企業では「退職準備プログラム」という教育をやっているらしいとい う情報を提供してくれたのです。田中さんのペンパルはクレーンのオペレーターだ った人で、「私は今後六十歳まで働けるんだけど、五十五歳で会社をやめる」と書 いてくる。
 日本人の常識からするとなんで早くやめるんだということになるんですが、
 「そんなクレーンのオペレーションなんかやって六十歳までも働けるものか。体 ががたがたになっちゃう。こんなもん金を稼ぐためにやっているんで、企業年金が つく年齢になったからアーリィ・リタイヤメントするのだ」。
 当時はとてもとても転職が当然の時代ではなかったので、アーリィ・リタイヤメ ントという言葉自体が新鮮な驚きでした。しかもペンパルは、「退職したら大学の 聴講生として、前々からやりたかった地質学の勉強するんだ」というような手紙な んです。
 そこで退職して勉強する以前に「退職準備プログラム」の研修会で今後の人生に ついての勉強をしたとも書いてあった。興味をもったので調べてみると、なかなか おもしろい。アメリカの「退職準備プログラム」では南カリフォルニア大学のもの が一番有名ですけど、ここで展開しているのは州の政府が第三セクターで事務局を 設け、大学がプログラムを開発する。さらに企業と労働組合が連携して労働者を勉 強に行かせるという仕組みでした。中小企業の場合には行政府と大学と労使が一緒 になってやっています。
 大企業のIBMだとかGM、GE、スリーエム、こういう会社は自社版の立派な プログラムを開発している。企業の福祉活動として力を入れているのです。
 そのとき私が手に入れたのはスリーエム社のプログラムだったと思うんですけど、 これを眺めてみれば実になかおもしろい。われわれがやっていることとずいぶん考 え方が通じている。ただ向こうはバタ臭いやりかたをしていますから、そのまま使 えないし、われわれはすでに現場から作り上げたといういささかの自負もある。よ しこれに負けないのを作ろうという具合になったのです。
 三菱電機労働組合は非常に立派なテキストを今に引き継いでいますが、最初の取 り組みはだいたい以上のようなことで、これが一九七六年に正式発足した日本最初 の人生設計プログラム「シルバープラン」の誕生物語です。
 長々と話しましたけれど、とくに聞いておいていただきたいと思うのは、これは 決して組織の側の都合でなにかをつくろうと思ったんではなくて、まさしく人々の ニーズに基づいて作り上げてきたということです。
 だから当時は石油ショック後で、世間では減量経営の嵐が吹き荒れており、中高 年という言葉が使われると「窓際族」とか「肩たたき」という言葉があって、「人 生設計プログラム」というのは肩たたきの一つ、退職勧奨じゃないかというような 見方も少なくなかったのですが、三菱電機においてはロマン溢れるシステムとして 着々認知されていきました。